秀久、九州島津攻めの先陣として出兵

天正14年(1586)10月3日 
仙石秀久宛豊臣秀吉書状



(折懸封紙ウハ書)
「千石権兵衛とのへ」
九月十八日書状到来、披見を加へ候。其〔そ〕の面〔おもて〕絵図ならびに両使口上の趣、聞こし召し届けられ候。

一(元親)長曽我部、罷り着すに於ては、(大友)義統相談、其の方事妙見の至り、相移るべき由、尤もに思し召し候の事。
一(輝元)毛利・(元春)吉川・(隆景)小早川、其の外中国人数、門司に至り渡海せしめ、手寄り次第敵城取巻くべき由、仰せ出だされ候。左候へば、妙見と定めて程近くこれ有るべき条、能く能く相談、越度〔おちど〕なき様調儀肝要の事。
一門司表敵城取巻き候とも、敵後ろ巻き仕り候儀はこれ有る間敷く思し召し候へども、敵を請け候城を、四ツ五ツも相拵へ、自来秀吉城を御取巻き行き仰せ付けられ候ごとく、丈夫に申し付くべき旨、仰せ出だされ候間、彼の表の儀は手堅くこれ在るべき条、左様に候はば、其の方陣取りの儀、少しも聊爾なき様に覚悟せしむべき儀、専一の事。
一毛利・吉川・小早川・其の外中国人数、門司表に在陣せしめ候はば、島津薩摩へ引入り候義これなく、中途につり留められくたびれ候て、迷ひ来たらしむべく候所へ、段々に御人数を遣はされ御馬を出され候はば、彼の悪逆人ひとりころびをいたすべく候間、手間入らず一人も洩らさず、首を刎ぬべき儀、手に取らせられ候程に思し召し候の事。
一路次柄、法度〔はっと〕以下念を入れ申し付くる通り神妙に思し召し候。将又〔はたまた〕兵粮等の儀、覚悟せしむる通り聞し召し届けられ候。去りながら関戸に至り御兵粮遣はされ候。猶以って追ひ追ひ仰せ付けられ候間、(行長)小西弥九郎かたへ申し遣はし、最前仰せ出だされ候如く、請取るべく候。猶追ひ追ひ言上すべく候也。
十月三日 (豊臣秀吉)○朱印
千石権兵衛とのへ


 秀吉による九州島津攻めの先発隊として出陣中の秀久に宛てた秀吉の令書。
『改選仙石家譜』によると、豊後(大分県)の大友義統より救援を求められた秀吉は、秀久と長曽我部元親とに先陣を命ずる。そこで秀久は三千余の兵を率いて、9月12日豊後の府内に着陣している。この書状は、そのおりの秀久よりの注進に対する秀吉の指令書である。
 その第4項では、毛利(輝元)吉川(元春)小早川(隆景)その外の中国筋の軍勢が門司に在陣していれば、島津は薩摩へ帰るわけにもいかず、くたびれはてて困るだろう。そこへ段々人数を派遣し、そのうえで秀吉自ら出馬すれば、「悪逆人」(島津)は「ひとりころび」をするだろう。手間も入らず、一人も残さず首を刎〔は〕ねることができると、いかにも秀吉らしいものの言い方をしている。
 この後の秀吉の令書にも繰り返し、豊後の陣地を固めることだけに専心し、上方よりの本軍の到着を待つように、としている。
 しかしそれにもかかわらず、島津軍の挑発にのってしまった秀久は、この年12月その大軍と戦い、大敗を喫してしまうのである。そして秀久は秀吉の怒りをかい、讃岐(香川県)高松を没収され一浪人となってしまう。
 なお秀久は初め権兵衛と称し、また姓についても、初めはこのように「千石」としたものが多い。慶長初年以降は、ほぼ「仙石」に統一されている。
(『仙石家文書』 兵庫県 出石町教育委員会蔵)