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条数が異なるものについて

七か条のもの

七か条のものは基本となる六か条に一か条を加えたものです。

一つは浦野信慶 等連署のものです。

加えられている一か条は「奉対正印甲府企逆心候者、涯分可至異見候、無承引者、傍輩共致同心」(『信濃史料』)です。

これは、「もし正印が信玄公に対して、謀反の心を抱いたら意見をします。聞き入れなかったら、一同は正印と手を切り、信玄公に忠節を尽くします。」というものです。正印とは、正しくは正胤、氏の正統・正しい血統を継いでいるという意味で左衛門尉幸次のことであろうと思われます。一族を統率する惣領である浦野幸次と家臣達にも連署させた別々の起請文を提出させ、相互監視によって互いに背けない仕組みとしています。

もうひとつは麻績清長 の起請文です。

麻績清長の起請文は、七日付のものと八日付のもの二通が残されています。七日付の起請文は、基本的な六か条のものですが、八日付のものは「神社蔵の起請文の中でも内容的に異彩いさいを放つもの」(『信玄武将の起請文』)とされています。

実際に基本的な形である六か条のものとかなり異なっています。

麻績氏は、麻績光貞等連署起請文でも提出者の名前として懸紙(包紙)に書いているように青柳氏の被官となっていた筑北地方の土豪で、現在の麻績村のあたりを支配地域としていました。

詳細について『信玄武将の起請文』から引用します。

まず第一条が「一字為りとも(ここまで傍点)相違致さない」(傍点同書筆者)という文言があり、他に例を見ないきわめて厳しい表現をとっていることです。

第二条では他の起請文では「甲・信・西上野・・・(下略)」とあるのに、「甲・信両州」となっていて西上野をげていないことが目につくとしています。

第三条においては、「小笠原殿(長時カ)・村上義清・長尾輝虎以下之御敵方より・・・(下略)」とあり、とくに、小笠原・村上両氏が挙げられているのは他の起請文に例をみないことで、第六条にいたっては、別に起請文を提出している屋代(政国) 、室賀(信俊)、大日向(直武) 入魂じっこんしないことを誓わせています。これらは、当時の武田・村上両勢力の接触地域の土豪たちで、凋落ちょうらくしているとはいえ、その小笠原氏や村上氏らとの結びつきをかなり警戒されていたもので、おそらくは、八月七日に起請文を提出した麻績清長は、翌八日に、あらためて特別な指示を受けてこの独自な起請文をしたため、しかも宛所を変更して、金丸平八郎宛に提出したものであろうと同書では考察しています。特別に厳しい内容とも言える七か条の起請文二通は、やはり、上杉方の勢力圏との境界といもいうべき地域の武将のものです。

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人物解説

浦野信慶起請文へ移動

惣領は浦野幸次。信州小県郡浦野(上田市)を本拠とした武士で祢津氏の一族であり、鎌倉時代からの旧族。信玄が葛尾城、塩田城を自落させた天文22年(1553)頃、武田氏に降った。

麻績清長起請文へ移動

信州筑摩郡麻績(東筑摩郡麻績村)の土豪。この地域は、筑摩・安曇から川中島地方への出口にあたり、武田氏と上杉氏の間で双方の勢力圏が接触する地域であった。

屋代政国

信州埴科郡屋代(千曲市)を本貫とする、上代からの旧族。村上氏の一族であったが、天文年間に武田氏に降る。永禄2年(1559)年11月に埴科・更科郡内の地を宛行われている。屋代氏の起請文は散逸したものとされ、生島足島神社には残されていない。

大日方直武起請文へ移動

信州水内郡の西部(上水内郡小川村)が本拠である。小笠原氏と関係が深く上杉氏の勢力と接する地域にいたため、武田氏からは警戒されていたらしい。

参考資料:信濃史料、信玄武将の起請文、上田市誌「歴史編・文化財編」から引用しています。