佐藤八郎右衛門

蚕種業の功労者・衆議院議員・初代長野市長

佐藤八郎右衛門
佐藤八郎右衛門
(さとう はちろうえもん)
1846ー1909

 八郎右衛門は、弘化3年、小県郡上塩尻村(現上田市)の蚕種家に生まれ、幼名を勝三といい大切に育てられましたが、11歳の時に父を失い、次の年、家を火災で失うという不幸にあいました。しかし、八郎右衛門は誠実な性格で、父から受け継いだ蚕種業に励み、次第に家業を盛り返していきました。
 江戸時代の末(1840年頃)、ヨーロッパでは微粒子病という蚕の伝染病が大流行し、フランスやイタリアは大きな打撃を受け、1866年頃には蚕が全滅しそうになりました。そこで、病気に冒されていない日本の蚕種を求めました。日本の販売価格より高く、即金で取引されたので、蚕種輸出ブームが起き、蚕種が飛ぶように売れました。しかし、目先の利益を追い求め、不良の蚕種や菜種を蚕種に見せかけたりする悪質な業者が多くいました。ヨーロッパの蚕の病気が治まってきた明治7年以降、相場が崩れ蚕種の価格は下がりました。このような中で上田小県地方の蚕種業者は、政府や県には影響されない組織を立ち上げ、粗製濫造を防ぎよい蚕種を造ろうと努力しました。
 明治6年(1873)、上塩尻村に優良蚕種の製造を目指した「均業社」が設立され、社長に八郎右衛門が就任しました。これに端を発し、上田小県地方には20を超える組合組織が生まれました。
 明治8年、蚕種製造組合会会議局が東京に開局され、渋沢栄一が会頭となり、蚕種製造上の問題を協議することになりました。全国から集まった局議員60余名のうち、蚕種に対しての知識と理解を持つものは3割で、会議は空転しましたが、八郎右衛門は、蚕種の改良や製造について、長野県の代表として建設的な意見を述べ続け、東京蚕種取締所委員にもなりました。さらに、明治29年には、信濃蚕種業組合長となり、長野県の蚕種業発展のために力を尽くし続けました。
 八郎右衛門は、蚕種業の発展を願いながら、政治の世界でも活躍しました。県議会では明治年に県会議長を勤め、国政の場では特に、蚕種検査法、養蚕奨励法案などの立法化に奔走し、蚕糸業の振興のために力を注ぎました。また、長野町が市制を施行した際には、上塩尻出身の八郎右衛門が初代長野市長に選ばれました。
 蚕糸業で活躍しながら、地方行政から国政に尽くした八郎右衛門は、明治35年、長男に家督を譲り、詩文や囲碁をよくする悠々自適の生活を送り、明治42年、64歳で没しました。

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