箱山貴太郎

民俗学の普及活動に貢献した研究者・教育者

箱山貴太郎
箱山貴太郎
(はこやま きたろう)
1907-1992

 箱山貴太郎は、小県郡豊里村小井田(現上田市)に生まれましたが、貴太郎が小学校へ入学した年に父親が病死。そのため遊び盛りの少年時代から母を助け、妹たちの面倒を見ることになり、近所や親類など世間の人との付き合いの仕方を若いうちから経験しました。
 大正14年、上田中学校(現上田高校)を卒業して、その翌年の春、武石小学校を振り出しに学校教師としての生活が始まりました。昭和4年、島根県松江で開催された国民教育協会の講習会に参加して、同会に出席していた東筑摩郡和田小学校長の矢ヶ崎次郎と偶然に出会い、その秋矢ヶ崎に連れられて成城の柳田国男に引き合わせてもらいました。そこで草創期にあった日本民俗学の生みの親になる柳田国男から、子どもたちが実際に生活してきた過程を知って教育に当たることの大切なこと、子どもと一緒に学んでいく姿勢の肝要なこと、そして郷土教育を学校現場に十分に生かすことなどの指導を受けました。
 こうして目を開かせられた箱山は、小県郡と上田市の小中学校の教育実践の中で本気で取り組みました。おさ小学校に勤務の時、教師自らが地域を知って正しい教育をするため、子どもたちに故郷を再認識してもらいたいと願って、自分の周囲の生活を調べて書かせた『長村郷土資料』(昭和9年)という孔版刷りの手製本を作りました。この資料は柳田国男から高い評価を受け、当時の民俗採集の手本として後学の人たちにも親しまれました。
 箱山は昭和38年に教職を退き、塩尻市の長興寺で行われた柳田国男の講座を上田から出向いて聴講したり、松本で開かれた会にもしばしば出席し、多くの人々の業績の吸収に努めました。こうして結ばれた縁の中で、昭和7年10月柳田国男を上田に招いて図書館で講演会を開くことができ、これを契機に日本民俗学の種子が上田盆地にかれました。
 箱山は、学問をもっと身近なものとして、物事をよく観察する人を増やしたいとの考えから、昭和28年、中村常雄、安間清らとともに上田民俗研究会を創立し、実際に村落に出向いて土地の人々の生活の姿を見聞する採訪を重ねました。村人が自分たちの平凡な生活の歴史と伝統を知ることにより、考える力と創造の力を取り戻す機縁になりました。こうしてまことの文化は庶民の生活にこそあるとして、真摯に民俗学の学問研究とその浸透に努めた箱山は86歳で永眠しました。

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