林貞三

先見性に優れた信州大学繊維学部長

林貞三
林貞三
(はやし ていぞう)
1894-1964

 昭和35年に、信州大学繊維学部教授を退官して後、5年もたたない内に永眠した時は、多くの教え子に深い悲しみをあたえました。
 若い頃の林は雷的存在で、日ごろは学生たちから怖がられていました。しかし、平素から天下の大きな流れに着目して枝葉末節のことには、あまりこだわらない豪放磊落ごうほうらいらくな人でした。また、一面人情の機微きびをよく察知して、手落ちなく事を運ぶ点にも十分に気を配っていました。
 林自身が終生最も愛した母校製糸学科を、自らの手で廃止するという皮肉な巡り合いに直面し、林の優れた先見性からか、学部に残された後輩に対しても「今回のことは君らに申し訳ないが、これも長い目で見れば君らのためになるんだよ」と話して淡々と退官しました。
 最初のころは製糸科で「糸とり」の技術を中心に研究していましたが、その後は製糸学として「糸とり」の科学的研究が始まりました。その内容は、原料繭の処理、繭糸、生糸、絹の物理学的諸性状、繰糸機械や繰糸方法など製糸のあらゆる部分にわたって発表しています。とりわけ「繰糸張力の研究」に最も力を注ぎました。理論と実用性において高く評価され、学会及び業界に対して大きく貢献しました。
 太平洋戦争中、学徒出陣によって出征する学徒のために、出征送別会が行われました。教え子の1人が送別会の席上、たまたまトイレに行くと、林はそっと後をつけて近づき、教え子の耳元でささやくように「君この戦争で死んではだめだよ」と耳打ちしながら肩をたたかれたとのことです。当時一般国民は「一旦緩急あれば死すとも可なり」と祖国愛一途に燃えていただけに、一瞬耳を疑って、その真意を解することができないまま戦場に向かいました。やがて敗戦を迎え、幸い生還したものの、前途は真っ暗で、仕方なく再び学校に戻り、林に帰還の挨拶をしたところ、大変喜んで「やあ、ご苦労だった、この戦いで大勢の犠牲者が出たことは誠に残念至極だが、いたずらに悲嘆にくれているばかりでは始まらない。君ね、これからは民主主義という時代がくるんだよ。それで各家庭一軒に一台の自動車がもてる時代が来るんだよ。元気を出して頑張りたまえ」と元気づけられて、再度驚かされたとのことでした。
 やがて昭和30年代には、その予言どおりになりした。今更ながらその炯眼けいがんには唯々ただただ脱帽せざるをえませんでした。昭和12年と14年の海外での研修で世界に通じていた結果でした。

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