増島良三

世界に名声をはせたミシン針製造家

増島良三
増島良三
(ますじま りょうぞう)
1896-1960

 良三は明治29年、埼玉県入間川町(現狭山市)に生まれ、まもなく東京市下谷区(現東京都台東区)に移り住みます。15歳のとき父親が急逝し、そのため苦学生が集まる東京労働学会に入会し、牛乳配達をして学資を稼ぎながら、さらに青山学院に入学して勉学に励みます。
 18歳の時にレコードや譜面などを扱う東京音譜商会にレコードのプレス工員として住み込み、懸命に働きます。第一次世界大戦が始まると蓄音機針の輸入が減ったため、住み込んでいた商会は需要がある蓄音機針の製造に切り替え、良三は解雇されます。
 事業家を志していた良三は独自に蓄音機針の製造を目指し、針の本場広島の縫い針工場で学んだり、東京市内の針に関する業者を探し当てながら知識を得て、大正4年、借金700円を元手に下谷区入谷町(現台東区)に二間長屋を借り、隣の米屋のモーターを動力に使わせてもらい、少量ながら蓄音機針の製造を始めます。その後3年間の兵役を経て、大正9年には3人を雇用して荒川区南千住に工場を設け、製造を再開します。そして、大正12年の関東大震災で大きな打撃を受けますが、製造技術の向上に必死に取組み、輸入針をしのぐ丈夫な蓄音機針の開発に成功します。
 また、良三はミシンの需要が増加しているにも拘わらず、すべて輸入に頼っている業界に目をつけ、蓄音機針製造を続けながら、荒川区尾久町にミシン針の試作工場を建て、30名の従業員を雇いミシン針の製造研究に没頭しますが、これはなかなかうまく行きませんでした。この頃、大阪の業者がミシン針国産化のために国から奨励金を受けたことを知り、良三のやる気はますます高まり、昭和11年資本金3万円の合名会社増島製針所を設立、翌年南千住の工場を売却し、尾久町の試作工場に隣接して工場を増築して工員を85名に増やし、納得できるミシン針ができるまで改良を重ね、月産約4000本のミシン針を製造します。
 太平洋戦争が始まると蓄音機針の輸出が禁止されたため、生産品はミシン針のみとなり、すべて軍に納入することになりました。東京空襲が激しさを増す中、工場疎開地として錆の心配のない乾燥地で、しかも冬も比較的温暖な中塩田村(現上田市)に小規模の分工場を移設し、さらに軍の全面疎開命令により、機械類全てを上田に移設します。戦後の深刻な物資・資金不足の中でしたが、工場を再建し、「オルガンを弾く婦人」印を付けたミシン針の売れ行きは順調に伸び、昭和25年には㈱増島製針所を設立。良三は針の品質を保ち、適正価格の販売を心がけたことから「オルガン印ミシン針」の評判は高まり、のちに従業員2000名を超える大工場に発展しました。しかし、良三は志半ばにして出張先で病に倒れます。享年64歳、針一筋の人生でした。

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