真田昌幸

徳川の大軍を二度にわたり撃退した知略の名将

真田昌幸
真田昌幸
(さなだ まさゆき)
1547-1611

 真田安房守(あわのかみ)昌幸は、小県地方を統一し、天正11年(1583)には上田城を築き、現在の上田市中心市街地の原型となった城下町をつくりました。上田市にとっては生みの親ともいえる名将です。
昌幸の生年については天正16年(1547)が通説となっており、父真田幸隆・幸綱が天正15年ごろ、武田信玄に従ったため、三男の源五郎(昌幸)は七歳で人質として、甲斐の信玄の元へ送られたと伝えられています。人質といっても、奥近習(おくきんじゅう)小姓(>/rp>こしょう))として信玄に仕え、十四歳のときには、川中島合戦で初陣を果たしたと伝えられています。
 永禄10年(1567)ごろ、甲斐の名門武藤家の養子となり、武藤喜兵衛(きへえ)を名乗った昌幸は、足軽大将として騎馬15騎・足軽30人を従える武将となりました。天正元年(1573)4月、信玄は三河で病み帰陣の途中病死したため、武田勝頼が家督を継ぎました。
 勝頼は、天正3年(1575)5月、三河に出陣しましたが、喜兵衛の二人の兄信綱・昌輝は、長篠の近く設楽原(したらがはら)の激戦で討ち死にしたため、喜兵衛が真田家を継ぐこととなり、真田昌幸と名乗りました。昌幸は、武田勝頼の重臣の一人として、北上州の経営・防備を担当し、天正7年(1579)には名胡桃城を、翌8年(1580)には沼田城を攻め落としました。
 天正10年(1582)3月に主家武田氏が織田信長により滅亡し、同年6月に信長が本能寺の変で死去したことから、信濃国は上杉・北条・徳川の勢力の草刈り場と化しました。こうした情勢の中で、昌幸は上杉景勝・北条氏直・徳川家康などと臣属(しんぞく)を替えながら勢力拡大を図りました。ほぼ小県郡内の統一を果たした天正11年(1583)、千曲川尼ケ淵(あまがふち)断崖上の要地に上田城を築くと同時に、城下町づくりも行われました。町人町としては、海野町・原町を中核として、横町・鍛冶町・紺屋町などもつくられました。
 第一次上田合戦(神川合戦)は、天正13年(1585)閏8月、真田氏の領有する北上州沼田領を徳川家康が北条氏に引き渡すよう命じたのを、昌幸が拒否したことによる徳川軍の上田城攻撃が始まりでした。徳川軍を神川まで押し戻して大敗させたことは、真田昌幸の武名を一躍天下に鳴り響かせました。
 第二次上田合戦は、慶長5年(1600)9月、関が原合戦に伴うものでした。信之は東軍(徳川方)に従い、昌幸と次男幸村は西軍(豊臣方)として、上田城に立てこもりました。中山道から関が原へ向かった徳川秀忠の大軍を翻弄し、秀忠軍を上田城に釘づけにし、関が原への着陣を遅らせました。
 しかし、関が原合戦は東軍の勝利となり、昌幸父子は紀州高野山へ配流となり、慶長16年(1611)6月4日、65歳で波乱の生涯を閉じました。墓は、上田市真田長谷寺と九度山善名称院(ぜんみょうしょういん)(真田庵)にあります。

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