真田信繁(幸村)

徳川家康を苦しめた知勇兼備の戦国武将

真田信繁(幸村)
真田信繁(幸村)
(さなだ のぶしげ(ゆきむら))
1567-1615

 真田信繁は、永禄10年(1567)武藤喜兵衛(きへえ)昌幸の次男として甲府で生まれました。幼名弁丸、ついで源二郎、本名信繁、官名左衛門佐(さえもんのすけ)ですが、一般には幸村として知られています。(以降、幸村とします。)父昌幸は、6歳から28歳まで武田信玄に仕え甲府で過ごしました。天正2年(1574)、昌幸の父幸隆が亡くなり、長兄信綱が真田家を継ぎましたが、翌年の設楽原(したらがはら)(長篠の合戦)で、信綱と次兄昌輝が戦死してしまいます。その為、三男の昌幸は、真田家を相続しました。天正10年(1582)に武田家が滅亡し、武田家を滅ぼした織田信長が横死する混乱期に、昌幸は戦国大名として自立の道を歩み始めました。天正13年(1585)徳川家康と対立した昌幸は越後の上杉景勝に助けを求め、人質として幸村を差し出しました。
 昌幸は、家康に対抗するために、豊臣秀吉にも援助を求め、天正14年(1586)に幸村を秀吉に出仕させて臣従しました。その後、秀吉に従い、天正18年(1590)の小田原の役、文禄元年(1592)の朝鮮出兵にも出陣しました。このころ、幸村は秀吉の有力奉行大谷吉継の(むすめ)と結ばれました。
 慶長5年(1600)9月、関が原合戦に伴う第二次上田合戦では、長男信之は東軍(徳川方)に従い、父昌幸と次男幸村は西軍(豊臣方)として、上田城に立てこもりました。昌幸と幸村の奮闘は、真田の武名を一段と上げることとなりましたが、豊臣方が惨敗したため、父子は高野山へ配流となりました。
 慶長16年(1611)に昌幸は九度山で亡くなりましたが、幸村は慶長19年(1614)の大阪冬の陣が始まるまで、配流先の不遇な生活に耐えていました。大阪冬の陣では、五千余の兵を率いて活躍をしますが、手柄に嫉妬する者も多かったようで、気苦労が絶えなかったと伝わっています。
 幸村は、慶長20年(1615)の大阪夏の陣でも奮闘しました。最後の決戦の5月7日には、孤軍奮闘し、家康の本陣めがけて三度突進しましたが、力及ばず討ち死にを遂げました。この真田幸村の壮絶な戦いには、「真田日本一の兵、古より物語にもこれなき由」(『後藤薩摩旧雑録』)と敵方からも賛辞がおくられています。享年49歳でした。

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