真田信之

上田藩・松代藩の基礎を固めた名君

真田信之
真田信之
(さなだ のぶゆき)
1566-1658

 真田伊豆守(いずのかみ)信之は、真田昌幸の長男で、信繁(幸村)の兄でした。父昌幸とともに、天正10年(1582)の武田氏滅亡後の混乱の中で、懸命の働きをしたと伝えられています。第一次上田合戦(神川合戦)では、父昌幸とともに戦い、勝利に貢献しています。
 真田昌幸は、豊臣秀吉に臣従し、信繁を秀吉に出仕させる一方、徳川家康の配下となったことから、信之を家康に出仕させました。こうした状況の中で、信之は家康の重臣本多忠勝の娘小松姫と結婚します。
 天正18年(1590)の小田原の役後は、昌幸が上田城主として上田領を支配し、信之は沼田城主として北上州を支配しました。慶長5年(1600)の関が原合戦に伴う第二次上田合戦では、東軍(徳川方)につき、西軍(豊臣方)についた昌幸・信繁の立てこもる上田城を攻めました。関が原合戦後は、昌幸の領地上田領も信之に与えられました。また、昌幸と信繁が死罪を免れ、高野山に配流となるだけで済んだのは、信之の命がけの嘆願によるものでした。
 関が原合戦後の上田城は、本丸・二の丸といった中心部は破却(はきゃく)されましたが、現在の上田高等学校の地に藩主屋敷を設けたり、城下町の拡張整備に努めました。上田の城下町は、信之の時代にその大部分ができました。
 信之は、農村についても、農民が逃亡することのないように年貢の減免措置を行い、耕作放棄地を減らす政策をとりました。また、用水堰の開削やため池の築造をし灌漑(かんがい)施設の整備を進めるなどの事業も行いました。
 元和(げんな)8年(1622)、信之は松代に領地替えとなりました。松代に移ってからも、明暦3年(1657)に92歳という高齢で隠居するまで、藩主の地位にあり、真田松代藩の礎を築き、その翌年(1658)に病没しました。

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