松平忠優

鎖国を打ち破り開国を唱えた幕末の英傑

松平忠優
松平忠優(忠固)
(まつだいら ただます(ただかた))
1812-1859

 松平伊賀守(いがのかみ)忠優は、幕府の老中を務め、二百数十年間続いた鎖国を打ち破り、開国の扉を開けた幕末の英傑です。
 忠優は、播磨国姫路藩主酒井雅楽頭(うたのみ)忠実の子で、文政12年(1829)に上田藩主松平忠学の婿養子となり、天保元年(1830)の忠学の隠居に伴い、19歳で上田藩主となりました。少年時代から賢く俊敏で、徳川譜代の酒井家の出であることから、天保5年(1834)には23歳で江戸城の奏者番(そうじゃばん)(将軍と大名の取次ぎなどの役)に、天保9年(1838)に27歳で寺社奉行、弘化2年(1845)に34歳で大阪城代となりました。
 忠優は、上田に産物会所をつくり、上田縞の改良・品質向上を図り、販路を広げ、養蚕業を奨励しました。また、大阪城代となってからも、大阪難波橋のたもとに上田産物売捌(うりさばき)所を設置して上田縞や上田紬などの販路を広げました。
 嘉永元年(1848)5月に、忠優は37歳で老中に就き海防掛(かいぼうかかり)となりました。このころ、我が国の沿岸近くに、イギリス・フランス・アメリカ・ロシアなどの船がしきりに現れるようになり、国内が騒然となってきました。嘉永6年(1853)、アメリカのペリーが国交を開くよう強く求めてきました。忠優は、老中主席阿部正弘と穏便・開国論を主張し、鎖国・攘夷論の徳川斉昭と対立しました。安政元年(1854)に再びペリーが来航し、日米和親条約を結びました。このため、条約を結んだことに不満をもった斉昭は、幕府の参与を辞任し、忠優を老中から解任させました。
 しかし、アメリカ総領事のハリスが日米修好通商条約の調印を求めるなど対外事情はますます重大な局面を迎え、安政2年(1855)に幕府では佐倉藩主堀田正睦が老中主席となり、老中阿部正弘が亡くなると安政4年(1857)9月には、忠優は老中次席として迎えられました。このとき、忠優は名を忠固と改めました。
 この難局を乗り切るために、安政5年(1858)4月に彦根藩主井伊直弼が大老に就任しました。直弼は、同年6月に天皇の勅許(ちょっきょ)を得ぬまま日米修好通商条約を結びましたが、その責任を堀田正睦と松平忠優にとらせて、両名の老中職を解任しました。なお、同年9月から、安政の大獄が始まっています。
 忠固は、安政6年(1859)9月に、48歳で亡くなり、江戸の天徳寺に葬られました。(改葬され今はない)また、遺髪と遺歯を埋納した墓は、上田市の願行寺(がんぎょうじ)にあります。

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