文化財の詳細情報

寒松院の墓(大輪寺)


大輪寺の華麗な山門

寒松院は、初代上田城主真田昌幸の夫人で、長男信之〔のぶゆき〕(幸)、次男信繁〔のぶしけ〕(幸村)の生母です。生前は山之手殿、または京の御前〔ごぜん〕と呼ばれていました。大輪寺〔だいりんじ〕寺伝によると寺は、もと砥石城(旧神科村)の東麓〔ろく〕の「畑山〔はたやま〕」にありましたが、昌幸が上田築城の時、夫人の発願〔ほつがん〕によって現在地に再建された禅寺といわれています。


大輪寺境内東方墓地に
葬られた寒松院の墓

夫人は天正十年(1582)武田氏滅亡の前は人質として、甲斐〔かい〕の新府城(山梨県韮崎〔にらさき〕市)に、また、慶長五年(1600)の関ケ原合戦の際も人質として大阪城に居ましたが、豊臣方に味方することに決した昌幸の知らせを聞き、ひそかに大阪城を脱出して上田城へ帰りました。

夫昌幸が慶長十六年(1611)高野山で世を去った2年後、慶長十八年に亡くなり、それからは寒松院と呼ばれました。夫人の出身には諸説ありますが、高野山蓮華定院〔れんげじょういん〕過去帳には、「京の公家の娘で武田信玄の養女として、昌幸に嫁ぐ。」と記されています。京の御前様と呼ばれたのをみても当を得ていると考えられます。また、天正七年ごろと推定される検地帳には「京の御前様御料所〔ごりょうしょ〕」として、木原地区一帯(真田町)に多くの土地も所有していました(*)。

市指定 史跡
昭和46.4.8
所在地
中央北1-5-7
所有者
大輪寺
慶長18年