黒漆を塗った木板の上部に金箔を押し、下部に朱漆で文字が書かれている。「大檀那幸綱并信綱」の幸綱の綱の字はかすれており、『信濃史料』等では「幸隆」と読んでいる。しかし、従来何人かの研究者に指摘されている通り、これはその下の「信綱」の綱と全く同一筆法に見える。明らかに「幸綱」と読むべきであろう。
高野山蓮華定院の過去帳に「天文九己亥四月二十六日 真田弾正忠幸□母儀」という一項がある。これについて「真田家(一徳斎殿)御事蹟稿」の中で、その編者河原綱徳は「天文九年に弾正忠幸綱と記せり。この時代、外に弾正の御名なし。然れば始めの御諱なるべし」と述べている。つまり幸隆は始めは幸綱と称したのだろうとしている。この扉の銘文と合わせてみるに、その河原説が妥当なところかと思われる。
いずれにしても真田幸隆(幸綱)と同信綱の2人が、永禄5年(1562)その崇敬する四阿山(白山社)奥宮の社殿を修造したことが知られる資料でもあり、大変貴重なものである。(口絵1頁参照)
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