慶長5年(1600)7月晦日 真田昌幸宛石田三成書状
 真田昌幸は、大坂方(西軍)に応じる旨を、7月21日付けの2度の書状で、近江佐和山の石田三成のもとに申し送った。その書状が27日、佐和山に到着、それに対する三成の返事である。
 長束正家等よりの最初の密書が、7月17日付けであるから、それが21日までに、下野に着き27日には昌幸よりの返書が、三成のもとに届いているわけである。ずいぶん迅速な急飛脚であったことがわかる。
 この書状により、石田三成は、挙兵の計画を事前に、昌幸に相談しなかったことについて弁明するとともに、昌幸等の妻子は、幸村の義父大谷吉隆が預っているから安心するように、などの事項を伝えている。







長野市松代 真田宝物館蔵
 去る廿一日に両度の御使札、同廿七日に江佐(近江佐和山)に到来候。拝見候。
一右の両札の内、御使者持参の書に相添ふ覚書並びに御使者の口上得心の事
一先づ以って今度の意趣、兼ねて御知せも申さざる儀、御腹立余儀なく候。然れども内府大坂にあるうち、諸侍の心如何にも計り難きに付いて、言発の儀遠慮仕り畢んぬ。なかんづく、貴殿御事とても公儀御疎略なき御身上に候の間、世間かくの如き上は、いかでとどこほりこれあるべきか。いつれも隠密の節も申し入れ候ても、世上成り立たざるに付いては、御一人御得心候ても詮なき儀と存じ思慮す。但し今は後悔に候。御存分余儀なく候。然れどもその段もはや入らざる事に候。千言万句申し候ても、太閤様御懇意忘れ思し食されず、只今の御奉公希ふ所に候の事
一上方の趣、大方御使者見聞候。先づ以っておのおの御内儀方大刑少(大谷吉隆)馳走申され候の条、御心安かるべく候。増右・長大・徳善も同前に候。我等儀御使者見られ候ごとく、漸く昨日伏見まで罷り上る躰に候。重ねて大坂の御宿所へも人を進め候て御馳走申すべく候の事
一今度上方より東へ出陣の衆、上方の様子承はられ悉く帰陣候。然らば、尾・濃に於いて人を留めしめ、帰陣の衆一人々々の所存、永々の儀秀頼様へ疎略なく究め仕り、帰国候様に相トめ候の事
一大略別条なく、おのおの無二の覚悟に相見え候の間、御仕置に手間入る儀これなきの事
長岡越中(細川忠興)儀、太閤様御逝去已後、かの仁を徒党の大将に致し、国乱ぞう意せしむる本人に候の間、即ち丹後国へ人数差し遣はし、かの居城乗取り、親父幽斎(細川藤孝)の在城へ押し寄せ、二の丸まで討ち破り候のところ、命ばかり赦免の儀禁中へ付いて御佗言申し候間、一命の儀差し宥され、かの国平均に相済み、御仕置半ばに候の事
一当暮来春の間、関東御仕置のため差し遣はさるべく候。仍って九州・四国・南海・山陰道の人数、既に八月中を限り、先づ江州に陣取り並びに来兵粮米先々へ差し送らるべきの御仕置の事
羽肥前儀(前田利長)も、公儀に対し毛頭疎意なき覚悟に候。然りと雖も、老母江戸へ遣はし候間、内府へ疎略なき分の躰に先づ致し候の間、連々公儀如在に存ぜず候の条、おのおの御得心候て給ひ候へとの申され分に候の事
一箇条を以って仰を蒙り候ところ、是また御使者に返答候、またこの方より条目を以って申す儀、この御使者口上に御得心肝要に候の事
一この方より三人使者を遣はし候。右のうち一人は貴老返事次第案内者そへられ、この方へ返し下さるべく候。残る二人は会津への書状ども遣はし候の条、その方より慥なる者御そへ候て、沼田越に会津へ遣はされ候て給ふべく候。御在所迄返事持ち来り帰り候はば、またその方より案内者一人御そへ候て上着待ち申し候の事
豆州(信幸)左衛門尉(信繁)殿に、別紙を以って申し入るべく候と雖も、貴殿御心得候て仰せ達せらるべく候。委曲御使者申し伸べらるべく候。恐惶謹言。
   七月晦日
    眞房州
       御報
三成(花押)