はじめに

江戸時代に書かれた「上田軍記」という書物の存在を知ったのは、今から三十年くらい前であった。しかし、それは活字化された書物の上のことであり、それも引用されたり、要約されたりした一部の文章にすぎなかった。いつか、その原文のすべてに行き会いたいものだという願いもむなしく、自分自身が積極的な働きかけをしなかったことも重なって、いたずらに日だけが過ぎてしまっていた。

数年前のある日、偶然にも「上田軍記」の毛筆写本北条家本(上田市舞田)との最初の出会いがあった。ただただ手が震えた。一度出会いがあると不思議なもので、清水家本(上田市小泉)との出会いにも恵まれた。そればかりか、上田市越戸の井沢家本・小県郡長和町下和田の羽田家本ほかの存在も知ることができた。まずは活字化ということで、北条家本・清水家本に挑戦した。とはいえ勤めのかたわらにすることであり、遅々として進まず多大な時間がかかってしまった。

今年の春のことである。今から七十年あまり前の昭和十一年(一九三六)に、上伊那教育会が出版した『蕗原拾葉(ふきはらしゅうよう)』という書物の中に「上田軍記」が入っていることを知った。それも、なんと地元の小県上田教育会館にも『蕗原拾葉』があるというのである。問い合わせをし、早速見せていただくことができた。事務のK先生にコピーまでしていただいて、家に帰って筆者の解読したものと合わせてみると、それぞれ微妙に違っているところがあることや『蕗原拾葉』に所載されたものが一番内容が詳しいことなどが分かった。このまま「自分一人で喜んでいるのは申し訳ない。広く皆さんにも読んでいただこう」と思い『蕗原拾葉』所載の「上田軍記」を底本とし、北条家本・清水家本ほかを参考にしながら現代語訳に挑戦することにした。しかし、これがまた思いの外難しく手間取ってしまった。敬語の使い方が統一されていないこと、繰り返し同じような接続詞が出てくること、言葉を補わないとうまく意味が通じない箇所があることなどによってである。

原稿がまとまりかけた七月のある日、上田市立博物館の館長さんにお会いした際、たまたま「上田軍記の現代語訳に挑戦している」と、お話ししたところ「博物館にも写本がある」とのこと。八月におじゃまし、これも見せていただくことができた。

ともかくも「継続は力なり」でなんとか形にはなった。非力ゆえに表現の稚拙なところもあるが、そこはお許しいただき、まずは真田昌幸父子の活躍と、それを支えた家臣や民衆に思いを馳せながらお読みいただければと願うところである。

なお、どこの「上田」かをはっきりさせた方がいいかな、というような単純な理由から、書名を『信州上田軍記』と改題したこと、原文に註記があった箇所は< >で示し、単語へのふりがなは(ピンク色)で、訳者が註を付したり、言葉を補ったりした箇所は(緑色)で示したことをお断わりしておきたい。

 

写本