上田合戦起こりの事

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上田合戦起こりの事

天正十年(一五八二) 三月十一日、甲斐の国主 武田四郎勝頼(たけだしろうかつより)甲州田野(甲州市大和町) の天目山において織田信長のために自殺に追い込まれた後も、 真田安房守昌幸(さなだあわのかみまさゆき) 父子は 上州(上野)沼田の城(沼田市西倉内)信州(信濃)松尾の城(上田市真田町) を領し、威を近国に振るっていた。ところが同年六月二日、織田信長が京都において 明智日向守光秀(あけちひゅうがのかみみつひで) に殺されたため、関東の諸大将は甲州・信州・上州の内に 蜂起(ほうき) し、甲州の 郷民(ごうみん) や武田の残党は 河尻肥後守重能(かわじりひごのかみしげよし) <甲州を領す>を殺し、 相州(相模)北条氏政(ほうじょううじまさ) は兵を率いて上州に乱入し、同月二十八日 厩橋(うまやばし)(前橋)(前橋市大手) にいた 滝川左近将監一益(たきがわさこんしょうげんかずます) と戦い、滝川は力つき 勢州(伊勢) へと逃げ帰った。 信州川中島(長野市川中島町) の城主 森勝蔵長一(もりしょうぞうながかず) も、その領地<更級郡・水内郡・高井郡・埴科郡>を捨てて逃亡した。このような中、信州や甲州の諸大将は互いに威を争い、領地を併合しようという志を持たない者はなかった。越後の 上杉喜平次景勝(うえすぎきへいじかげかつ) は信州を奪おうとして川中島に 出張(でば) り、北条左京大夫氏政は甲州を奪おうとして 郡内(都留(つる)郡、富士吉田市・大月市を中心とする地域) に出張った。徳川家康公も甲州に出張って甲府に陣を据えられた。 北条氏直(氏政の子) は上州の碓氷峠を経て信州佐久郡に出張った。この時、真田昌幸は上州沼田にいたので、氏直に従って信州に発向した。
家康公の 寵臣大久保七郎右衛門忠世(ちょうしんおおくぼしちろうえもんただよ) は、 依田右衛門佐信蕃(よだうえもんのすけのぶしげ) <あるいは 芦田下総守(依田信蕃父、信守) >に「貴殿と真田安房守は旧友である。 (はかりごと) をもって真田を家康公の 麾下(きか)(指揮下) に付けられたなら、一城を攻め落としたよりも大功となろう」と言った。依田信蕃は「真田を味方にするのは容易ではあるが、家康公から大禄を賜わるならば真田にこの旨を告げよう」と答えた。そこで、大久保忠世がこのことを家康公へ申し上げたところ家康公は大いに喜ばれ、「真田を我が味方に引き入れたならば、安房守は言うに及ばず、依田右衛門佐にも重く恩賞を与えよう」と杉浦七蔵を使者として朱印を賜わった。その後、北条氏直と家康公が 甲州若神子表(北杜市須玉町付近) で八月から対陣した時に、安房守昌幸は家康公の味方として 信州岩村田(佐久市岩村田)黒岩の城を乗っ取った。そして、依田右衛門佐と示し合わせ同十月に上州碓氷峠に出張り、北条家の糧道を断ち切ったので、北条家の軍勢はやむなく和を請い引き 退(の) いた。

○ある記によると、八月二十九日に北条氏直と家康公と和睦があり、家康公からは上州沼田の城を氏直へ遣わされ、氏直からは 甲州都留郡(郡内) と信州佐久郡を家康公へ遣わして速やかに兵を引いたと 云々(うんぬん)

その後、秀吉公から「上州・信州・甲州の三か国は、家康公と北条家の両者で手柄次第に自分のものとしてよい」との下知があり、甲州と信州は家康公のお手に入り、上州は北条家の領地となった。その時「安房守昌幸の領地沼田の城は上州の内にあり、殊に境目でもあるので、かの地を北条家へ渡す」という氏直と家康公との約束があった。家康公から真田昌幸へ「その (ほう) の領分である上州沼田の地を北条家へ渡せ。その替地は信州の内で、こちらから出そう」と仰せられた。昌幸は 「それがし、一昨年よりお味方を申した上は、替地をさえ下されるならば、すぐにも沼田を北条家へお渡ししましょう」と答えた。家康公からは 「替地は信州伊那にて出す予定である。まず沼田を渡したならば、その後に替地を出そう」と再三使者があった。真田昌幸は「家康公は、それがしを行く行くは手障りになるに違いない者とお考えになられ、領地を削って小身になし、ついには我が家を滅ぼそうとする謀である」と考えて、二人の息子源三郎 信幸(のぶゆき) と源次郎 信繁(のぶしげ) ・譜代旧功の家臣らを召し集め相談した。家臣らは「家康公の武威を見ると日々に高まっております。その上、今日までお味方をし忠節を尽くされてきたのですから、沼田をお渡ししたならば、きっとその替地を早速にも遣わされるに違いありません。打ち捨てておかれることはないと思います。家康公の仰せ寄こされた旨のとおりに任せられるのがよろしいでしょう」と申し上げた。昌幸は、これを聞いて「なんじらが申すところも、もっともである。しかしながら沼田を渡したその上に、替地のことは 沙汰(さた) もなく、上田をも渡せと言われた時は 各々(おのおの) はどう思う」と言った。家臣らは「そのように理不尽なことはないと思われます。もしそのようなことであったならば、一同命を捨て 籠城(ろうじょう) つかまつります」と申し上げた。昌幸は大きく笑って「このたび沼田の城を渡して小身になり、その上でくれるという各々が命をただ今申し受けよう。 兎角(とかく) に手切れをするということならば、沼田の城をも所持したままで手切れするのがよい謀である」と言った。そして上田へ龍城することにお決めになって家康公へこう再返答した。「それがしこと、一昨年甲州へご出張りの時、最初よりお味方に参り粉骨を尽くさせていただきました。そのため、速やかに信州がお手に入ったのです。ですからご褒美を 頂戴(ちょうだい) してもよいところであるのに、その沙汰もなく、結局真田昌幸が力を尽くし (ほこ) をもって手に入れた沼田をも、替地も下されずに召し上げるということは迷惑に存じます。そもそもこの沼田は徳川殿並びに北条家より申し受けた領地ではございません。昌幸が武勇をもって領する所ですので、意のままに支配せよとこそ仰せられるべきなのに、沼田を北条家へ渡せとは覚悟に及ばぬところです。どうして差し上げることができましょう。この上は家康公のお味方を申し、忠節を尽くしても甲斐もないことです。沼田を渡すことは思いも寄りません」ときっばりと断わり、いよいよ手切れとなった。家康公は、大いに腹を立てられ「この上は大軍をもって 上田の城(上田市二の丸・大手) を攻めよ」と評議された。

○ある記によると、 天正十年(一五八二) 六月二日に織田信長が京都において横死した後、甲州は家康公の領地となった。一方、相州小田原の城主北条左京大夫氏政は甲州を攻め取ろうと、嫡子新九郎氏直を大将とし大軍を添えて甲州へ出張らせた。家康公はこれを聞かれて軍兵を率いて甲州へ発向され、数か月の間北条家と対陣し、互いに勇を振るい合われた。その時、北条氏政の舎弟美濃守 氏規(うじのり) は様々にとりなし、両家の和睦を成立させた。これによって「北条家からは信州佐久郡を家康公へ渡し、家康公からは上州沼田を北条家へ渡す」と約束し、双方共に軍を引き揚げた。その後、北条家は信州佐久郡を家康公へ渡し、約束どおり「上州沼田を渡してもらいたい」と申し送った。そのため、家康公は使者を沼田の城主真田安房守昌幸方へ遣わし、「その方の領地沼田の城地を北条家へ渡せ。その替地は他所にて遣わそう」と仰せられた。昌幸は「そもそもこの沼田の領地は、徳川殿・北条殿より頂戴した所領ではございません。安房守が一身の才覚・武勇をもって手に入れた所領です。理由もなく北条家へ渡すことは思いも寄りません。その上昌幸は徳川殿の麾下に属して以来、度々軍忠を尽くしたにもかかわらず恩賞の沙汰もなく、これをこそ不審に思っているその上に、自力をもって手に入れた領地を差し出せとは、覚悟に及ばぬところです。それゆえ、沼田を北条家へ渡すことは決してかなうことではありません」と申し切って、家康公のお使いを返した。家康公は大いに怒られて、大久保忠世・ 鳥居元忠(とりいもとただ)平岩親吉(ひらいわちかよし) を大将として兵を信州へ遣わし、上田の城を攻めさせられたと云々。

 

原文

上田軍記之上

此巻ニハ天正十三年上田合戰之事ヲ記ス

上田合戰起之事

天正十年壬午三月十一日ニ甲斐國主武田四郎勝頼甲州田野之天目山ニ於テ織田信長ノ爲ニ生 害アリシ後ハ、安房守昌幸父子モ上州沼田城・信州松尾城ヲ領シテ威ヲ近國ニ振ハレケル、 爾ル處ニ同年六月二日ニ織田信長京都ニ於テ明智日向守光秀ニ弑サレケルハ、關東ノ諸大將 甲州・信州・上州之中ニ蜂起シテ、甲州之郷民武田之余類ハ河尻肥後守重能<領甲州>ヲ殺 シ、相州北條氏政ハ兵ヲ率ヒテ上州ニ亂入、同月廿八日ニ上州橋ノ城ニ居タリケル瀧川左 近將監一益ト戰フ、瀧川力盡テ勢州エ歸ル、信州川中島ノ城主森莊藏長一モ其領地<更級郡・水内郡・高井郡・埴科郡>ヲ捨テ逃亡ス、是ニ於テ信州・甲州ノ諸大將共ニ威ヲ爭ヒ、併呑之志ヲ含サルハナシ、越後ノ上杉喜平次景勝ハ信州ヲ奪ハントシテ川中島ニ出張シ、北條左京大夫氏政ハ甲州ヲ奪ハントシテ郡内ニ出張ス、徳川家康公モ甲州ニ出張有テ甲府ニ陣シ玉フ、北條氏直上州碓氷峠ヲ經テ信州佐久郡ニ出張ス、此時ニ當テ安房守昌幸ハ上州沼田ニ有シニヨリ、北條ニ隨ヒテ信州ニ發向有、爰ニ家康公ノ 長(ママ)臣大久保七郎右衛門忠世、依田右衛門佐信蕃ニ謂テ云ク<或ハ蘆田下總守>、御邊ト眞田安房守ハ舊友ナリ、謀ヲ以テ眞田ヲ家康公ノ麾下ニ附ラレナハ一城ヲ攻落タルヨリモ大功ナラント云、依田信蕃カ云ク、眞田ヲ味方ニ成サンハ易ケレトモ、家康公ヨリ大祿ヲ賜ラハ眞田ニ此旨ヲ告ント云、依テ大久保忠世是ヲ家康公ヱ申上ケレハ家康公大ニ悦ヒ玉ヒ、眞田ヲ我カ味方ニ引入ナハ安房守ハ云ニ及ス依田右衛門ニモ重ク恩賞有ヘシトノ旨ニテ、杉浦七藏ヲ使者トシテ朱印ヲ賜ハル、其後ニ北條氏直ト家康公ト甲州若神子表ニテ八月ヨリ對陣有シニ、安房守昌幸ハ家康公ノ味方トシテ信州岩村田之内黒岩ノ城ヲ乗取リ、依田右衛門佐ト牒シ合シテ同十月上州碓氷峠ニ出張有北條家ノ兵粮運送ノ路ヲ切ケルニヨリ、北條家ノ勢竭テ和ヲ乞テ引退ケリ

或記ニ云、八月廿九日ニ北條氏直ト和睦有、家康公ヨリ上州沼田ノ城ヲ氏直エ出サレ、氏直ヨリ甲州都留郡ト信州佐久郡ヲ家康公エ遣シテ速ニ兵ヲ引レケルト云々

其後ニ秀吉公ノ下知トシテ上州・信州・甲州ノ三ケ國ヲハ家康公ト北條家ノ手柄次第ニ兩方納ラルヘシト有ケレハ、甲州・信州ハ家康公ノ御手ニ入上州ハ北條家ノ領ト成、時ニ安房守昌幸ノ領地沼田ノ城ハ上州ノ内ト云、殊ニ境目ナレハ彼ノ地ヲ北條家ヱ渡サルヘシト、氏直ト家康公ト契約有テ家康公ヨリ眞田昌幸方ヱ仰遣サレケルハ、其方ノ領分上州沼田ノ地ヲハ北條家ヱ相渡スヘキ也、其替地ヲハ信州ノ内ニテ家康公ヨリ出サルヘシトナリ、眞田昌幸返答有ケルハ、某去々年ヨリ御味方ヲ申候事成ハ替地ヲサヱ下サレナハ早速沼田ヲハ北條家ヘ相渡申ヘキト也、家康公ヨリ又仰ケルハ、替地ハ信州伊奈ニテ出サルヘシ、先沼田ヲ相渡シ候ヒナハ其後ニ替地ヲ出サルヘシト再三御使有、眞田昌幸モ思慮有ケルハ、家康公ノ某ヲ往々ハ手障ニ成ヘキ者ト思食レ、領地ヲ削リテ小身ニナシ終ニハ我家ヲ亡ヘキ謀也ト思案有テ、眞田ノ兩息源三郎信幸・源次郎信繁并譜代舊功ノ家臣等ヲ召集ラレ此事ヲ相談有、家臣等ノ申ケルハ、家康公ノ武威ヲ見ルニ日々ニ御募候也、其上今日迄モ御味方ヲ成レテ御忠節ヲ盡サレシ事ナレハ沼田ヲ御渡有程成ハ定テ其替地ヲモ早速遣サルヘキ也、打捨置ル々事ハ有間敷候也、家康公ノ仰越ル々旨ニ任セラレ爾ルヘシト各申ケレハ眞田昌幸是ヲ聞シ召レ、汝等カ申處モ最也、去ナカラ沼田ヲ相渡タル其上ニ替地ノ儀ハ沙汰モナク上田ヲモ相渡スヘシト有時ハ各ハ如何思フソト有ケレハ、各申ケルハ、左様ニ理不盡成事ハ有間数候也、若左様ニ有物成ハ何レトモ一命ヲ捨テ籠城仕ルヘシトソ申ケル、時ニ眞田大ニ笑テ仰ケルハ、今度沼田ノ城ヲ相渡テ小身ニ成、其上ニテ玉ハラント有各カ一命ヲ唯今申受ヘキ也、兎角手切ニスル程成ハ沼田ノ城ヲモ相拘ヱテ手切ニスルカ能謀也トテ上田ニ籠城有ヘキニ評諚ヲ極ラレテ扨家康公ヱ再返答有ケルハ、某事去々年甲州ヱ御出張ノ時最初ヨリ御味方ニ参分骨盡シ候故ニ信州早速御手ニ入候也、爾レハ御褒美モ有ヘキ處ニ其沙汰ニモ及レス、結句眞田昌幸カ力ヲ盡シ鉾ヲ以切取處ノ沼田ヲ代地ヲモ出サレス召上ラルヘシトノ儀ハ迷惑ニ存ル也、抑此沼田ハ徳川殿并ニ北條家從申受タル領地ニモ候ハス、昌幸カ武勇ヲ以領スル處成ハ意ノ儘ニ支配スヘキトコソ有ヘキヲ、沼田ヲ北條家ヱ相渡スヘシトハ覺悟ニ及ヌ處也、得コソ指上ケ候マシ、此上ハ家康公ノ御味方申忠節ヲ致テモ詮モナキ事也、中々沼田ヲ相渡事ハ思モ寄スト申切テ遣彌手切有ケレハ家康公大ニ御腹立有、此上ハ大軍ヲ以上田ノ城ヲ攻ラルヘシト議シ玉フ
或記ニ云、天正十年六月二日織田信長京都ニ於テ横死有シ後ハ甲州ハ家康公ノ御領ト成、爰ニ相州小田原ノ城主北條左京大夫氏政ハ甲州ヲ責メ取ラントテ嫡子北條新九郎氏直ヲ大將トシテ大軍ヲ相副テ甲州ヱ出張セシム、家康公此事ヲ聞玉ヒ軍兵ヲ引率シ甲州ヱ發向シ玉ヒ數月ノ間北條ト對陣シ玉ヒ互ニ勇ヲ振レケル、時ニ北條氏政ノ舎弟北條美濃守氏規様々ニ執持テ兩家ノ和睦ヲ調ケリ、是ニ依テ北條家ヨリハ信州佐久郡ヲ家康公ノ方ヱ相渡家康公ヨリハ上州沼田ヲ北條家ヱ渡スヘシト契約有テ双方共ニ軍ヲ班シケリ、其後ニ信州佐久郡ヲ北條家ヨリ家康公ヱ相渡テ上州沼田ヲ相渡サルヘシト申送ル、依テ家康公ヨリ使者ヲ以沼田城主眞田安房守昌幸ノ方ヱ仰ケルハ其方ノ領地沼田ノ城地ヲハ北條家ヱ相渡スヘシ、其替地ヲハ他處ニテ遣スヘシト也、昌幸返答有ケルハ、抑此沼田ノ領地ハ徳川殿・北條殿ヨリ申受サル處領也、安房守カ一身ノ才覺武勇ヲ以切取處ノ所領也、故ナク北條家ヱ渡サン事ハ思モ寄ス、其上昌幸ハ徳川殿ノ麾下ニ屬シテヨリ已来度々軍忠ヲ盡ストイヘトモ賞禄ノ沙汰モナク、是ヲコソ不審ニ存候處ニ剰ヘ自力ヲ以切取處ノ領地ヲ指上ヨトハ覺悟ニ及ハサル處也、爾レハ沼田ヲ北條家ヱ相渡候事ハ曾テ叶ヒ候マシト申切テ家康公ノ御使ヲソ返シケル、爰ニ於テ家康公大ニ瞋セ玉ヒテ大久保忠世・鳥居元忠・平岩親吉ヲ大將トシテ兵ヲ信州ヘ遣シ、上田ノ城ヲ攻サセラルト云々