鞠子合戦の事、附信幸物身の事

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現代語

鞠子合戦の事、附信幸物見の事

 (うるう)八月二日、遠州(遠江)勢はすっかり敗軍してしまった。上田の城兵は大いに利を得て勇み、浜松勢は皆気を屈した。浜松勢の大将大久保七郎右衛門忠世はしきりに士卒を励まし、同三日に諸大将皆一緒になって鞠子<丸子>の (上田市腰越)へ攻め掛かろうと、千曲川を馳せ越えて八重原(東御市八重原)へ押して出た。これを見た上田方は、敵を欺こうと海野(東御市本海野)から八重原の下を押し通り手白塚(上田市塩川)に働き出た。そして、さらにこれを見た寄せ手の大久保忠世は柴田七九郎重政を軍使として鳥居・平岩の陣へ遣わし、「両人は軍兵を千曲川の端へ出されよ。忠世は岡部と一手になって中を取り切り、祢津(ねつ)(東御市祢津)へ押し上って皆で進み、真田の軍勢を取り巻きにして討とう」と言ったが、鳥居も平岩も同意しなかった。大久保は大いに怒り、また使者を遣わして「面々が川端までも出陣し難く思うならば、この山陰に人数を備え忠世の後へ続かれよ」と伝えた。しかし、両人はまたもや従わなかった。そのため忠世は鞠子の城を攻撃できず、八重原に陣して敵が通るのをただうかがっているだけだった。同月十九日には (徳川方の)諏訪安芸守頼忠が、二十日には昌幸父子三人が丸子川に出張って、足軽を先頭に鉄砲を撃ち掛け、合戦を仕掛けた。大久保忠世はまた使者を馳せて、鳥居・平岩に「真田父子が三人とも今ここに打ち出でて、戦を仕掛けている。各々も早く当所へ来て戦おう」と申し送ったが、両人は戦っても利のないことを推察したのであろうか、さらにこれに従わなかった。これを聞いた岡部弥二郎長盛は忠世の陣に馳せ加わり、一手になって上田勢に討って掛かった。上田勢の先手は少々追い立てられたが、備えを立て直しさんざんに戦い、軽く人数を引き揚げた。遠州勢は昨日の合戦に(こ)り、戦意を失ってしまった。真田勢の先手の者たちが思いの外に敗走したので、「鳥居・平岩が一緒になって戦ったならば、真田父子のうち一人は討ち取ることができたものを、口惜しいことよ」と後悔した。その後も昌幸父子は度々打ち出て武威を振るったが、浜松勢は疲れた上に戦うたびに利を失い、少しも取り合わず、いたずらに日を送ることとなった。

 

原文

鞠子合戰之事、附信幸物見之事

閏八月二日ニ遠州勢悉ク敗軍ニ及ケレハ、上田ノ城兵ハ大ニ利ヲ得テ勇ミ濱松勢ハ皆氣ヲ屈シケル、爾レトモ濱松勢ノ大將大久保七郎右衛門忠世ハ頻ニ士卒ヲ勵シテ同三日ニ諸大將悉ク一列シテ鞠子ノ城<或丸子>ヱ働カントテ、千曲川ヲ馳越テ八重原ニ押出ル、上田方ニハ是ヲ見テ敵ヲ欺ントテ海野ヨリ八重原ノ下ヲ押通手白塚ニ働キ出ル、寄手ノ大久保忠世是ヲ見テ柴田七九郎重政ヲ軍使トシテ鳥居 ・平岩カ陣ヘ告ケルハ兩人軍兵ヲ筑摩川ノ端ヘ出サルヘシ、忠世ハ岡部ト一手ニ成テ中ヲ取切津ノ原ヱ押上リテ一同ニ相進ミ眞田カ勢ヲ取巻討ヘシト云遣ケレ共鳥居・平岩是ニ同心セス、大久保大ニ瞋リケルカ、又使ヲ以面々川端迄出陣モ難成思ハレハ此山陰ニ人數ヲ備ヘ忠世カ後ヘ續カルヘシト申遣ケレトモ、兩人又此義ニモ從ハサレハ忠世ハ鞠子ノ城ヘ働得ス、八重原ニ陣シテ敵ノ透間ヲ窺ヒケリ、同月十九日ニ諏訪安藝守頼忠同キ廿日ニ昌幸父子三人丸子川ニ出張有テ足輕ヲ先ニ進セ鐡炮ヲ打掛合戰 ヲ仕掛ラル、大久保忠世又使ヲ馳テ鳥居・平岩ニ申ケルハ眞田父子三人トモニ今此處ニ打出テ戰ヲ仕掛ル也、各早ク當所ヘ來リ戰ルヘシト申送ルトイヘトモ、兩人戰テ利有間敷ヲ推察セシカ、更ニ此旨ニ從ハス、岡部彌次郎長盛是ヲ聞テ忠世カ陣ニ馳加リ一手ニ成テ上田勢ニ討テ掛リ戰ケル、上田勢ノ先手少々追立ラレシカ、即チ備ヲ立直シ散々ニ戰ヒ輕ク人数ヲ引揚ケルニ遠州勢ハ昨日ノ合戰ニ手懲シテ圍ヲ外シケル、眞田カ勢ノ先手ノ者トモ思ノ外ニ敗走シケルニ鳥居・平岩一味シテ戰フナラハ眞田父子ノ中一人ハ討取ヘキヲ口惜サヨト後悔シケルト也、 其後モ昌幸父子度々打出テ武威ヲ振ハレケレトモ、濱松勢ハ疲レタル上ニ戰フ毎ニ利ヲ失ヒケレハ聊モ取合ス徒ラニ日ヲソ送リケル