昌幸と上杉景勝不和の事、附信幸信州所々働きの事

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現代語

昌幸と上杉景勝不和の事、附信幸信州所々働きの事

 この時、真田昌幸は隣国越後の国主上杉喜平次景勝へ加勢を請うた。上杉家は塩尻口まで加勢を出したが、加勢の大将はついに塩尻口を出ようとはしなかった。そこで、昌幸は大いに立腹し、上杉領の 海津近辺(長野市松代町)塩崎(長野市篠ノ井塩崎)屋代(千曲市屋代)まで出張って放火した。
この節は海津の城代として、上杉家から須田相模守と甘糟備後守が籠め置かれていたが、昌幸は嫡子源三郎に命じ上杉領の中へ遣わして所々に放火させた。信幸は手回りの者ども二、三百人を引き連れ、千曲川を越えて川中島の内の 御幣川(おんべがわ)・丹波島・雨ノ宮・綱島辺へ出馬し、上杉家の城代の者たちとせり合ったがそのたびに勝利した。その後、景勝の取りなしで無事講和が成立し、屋代から南を信幸へ渡し「今後は川中島へ働くのをやめられよ」ということで、真田方はかの表へ働くのをやめることとなった。この時のものと思われる上杉景勝から矢沢薩摩守への書状が残されている。それには、次のような記述がある。

◎景勝の書状
いまだ(正式な)書面はできないが、書状をお送りする。その地での在城のご苦労は何とも致し方ないことである。さて真田安房守が去年当方に属し日を経ずにやめたことは、いかようの存念があるのか不審千万なことであった。しかしながら、北条安芸守(きたじょうあきのかみ)(高広)から使者をもらい、その返答から(真田昌幸の)始め、中、終わりの心底を確かに聞き届け、(よんどこ)ろないことだと思っている。今後のことは猶予し(昌幸が)入魂(懇(ねんご)ろ)にするのであれば、少しも別儀(特別なこと)はない旨をよくよく伝えてほしい。なお、使いの僧が口上を申し上げる。恐る恐る謹んで申し上げた。

   七月十五日

景勝 判

 矢沢薩摩守殿


この書状は、横小半紙で四寸五分ある。矢沢氏の重宝である。

 

原文

昌幸ト上杉景勝不和之事、附信幸信州所々働之事

上田ノ城ニ於テ始隣國タルノ間越後之國主上杉喜平治景勝ヘ加勢ヲ乞レケルニ、上杉家ヨリ塩尻口迄加勢ヲ出サルトイヘトモ加勢ノ大將終ニ塩尻口ヲ出サルニ付テ、昌幸大ニ立腹有テ上杉家ヘ色ヲ立ラレ海津近邊・塩崎・矢代迄相働放火有、此節ハ海津ノ城代トシテ上杉家ヨリ須田相模守・甘糟備後守ヲ籠置ケルニ昌幸ハ嫡子源三郎ニ命シテ上杉領ノ中ヘ遣シ所々放火有、信幸ハ手廻ノ者トモ二三百人引具シテ千曲川ヲ越テ川中島ノ内ノ御幣川・丹波島・雨ノ宮・綱嶋邊ヘ出馬有、上杉家城代ノ者共ト糶合有シニ毎度信幸勝利ヲ得ラレシ也、其後ニ景勝ヨリ手ヲ入無事ヲ調ラレ、矢代ヨリ南ノ方ヲ信幸ヘ渡シ向後トモニ川中島ヘ働ヲ止ラレ候ヘト有ケレハ、彼表ノ出張ヲ止ラレケル、此時ノ事ト見ヘテ矢澤薩摩守カ方ヘ上杉景勝ヨリ書状有、其文ニ云
 雖未能書面馳一翰候、其地在城大儀無是非候、仍而眞田安房守去年屬當方不經日相濟候之條如何様之存分候哉不審千萬候、然者北條安藝守所ヨリ及使者候之處彼返答始中終之心底慥聞届無據候、向後之儀猶豫於入魂ハ毛頭不可有別儀候之旨能々相達尤候、尚使僧可有口上候、恐々謹言

  七月十五日

景勝 判

 矢澤薩摩守殿

此状ハ横小半紙ニテ四寸五分有、矢澤氏カ重寶也