おわりに

本書で取り上げた「上田軍記」は、真田信之を祖とする松代藩真田家の家臣の手になる真田家の家記であり、徳川の大軍を上田表に迎え、これをわずか二、三千の軍勢で二度にわたって打ち破った真田昌幸父子の活躍の姿が生き生きとつづられている。

原本の所在は不明であるが、写本が高遠藩藩校進徳館(現在、上伊那高遠町図書館蔵)のほか、長野県下、とりわけかつて真田昌幸の領地であった上田小県地方の旧家に毛筆写本が何冊か大切に保存されてきたのは幸いなことであった。筆者の手元にも数種の写本のコピーがある。あえて数種と書いたのは、写し手によって少しずつではあるが表現に違ったところがあるからである。

「上田軍記」の著者と成立の時期について探ってみると、これが必ずしもはっきりとはしない。真田家の初期の家記とも言うべき「滋野世記(松代通記)」(全二十巻)の最後に「上田軍記」上下二巻が入れられたということからすると、著者は「滋野世記」の編者である桃井亦七郎友直であり、成立は「滋野世記」が完成した享保十八年(一七三三)と考えられる。件(くだん)の「上田軍記」の本文に「この時の始末は、詳細に『昌幸伝記』と『信之伝記』の中に記しておくので、今ここには略して載せない」とか、「このこと(ここに書いたこと)は『安房守昌幸伝記』と『伊豆守信之伝記』と見合わせたならば、ことが正しくなるであろう。今参考のためにある記のすべてを挙げておく」と書かれていることなども、その証といえよう。しかし、桃井が編者であることを重視すると、あるいは著者は別におり、成立はそれ以前ということも考えられる。しかし、本文中に「この沼田七騎の子孫たちは、今皆家来となって当家に仕えている」とか「この信幸の書状は、恩田長右衛門の家に伝えられている」などと書かれていることや、本文中に引用されている石田三成からの書状など藩の重要書類(機密書類)を見られる立場にあった人物であることなどから考え(仮に著者が桃井亦七郎ではないとしても)、真田家の家臣、それも上級の家臣であったことは間違いない。また、成立の時期は、真田氏の活躍を描いた軍記物語として広く流布したものに「真田三代記」や「真田三代実記」などがあるが、これらが赤穂浪士討ち入りの元禄十五年(一七〇二)以降の成立といわれていることなどからすると「上田軍記」の成立も、享保十八年(一七三三)をさかのぼったとしても十八世紀初めころまでと考えてよさそうである。

ついでながら「滋野世記」の原本は現在所在が不明で、写本が十巻までしか残されておらず、後半の十巻はまとまった形では残されてはいない。

また「真田三代記」や「真田三代実記」等が、歴史小説(幕府の支配に苦しむ民衆の夢を満足させるためのフィクションが中心)なのに対し、この「上田軍記」は、軍記物語とはいっても松代藩真田家の家記として編纂されたものであり、あくまで史実に沿おうという姿勢が各所に見られる。

この「上田軍記」がどのような経過で庶民の手に渡ったかは定かでないが、識者によって筆写が繰り返されて民間でも広く読まれ、人々に夢を与えていたであろうことは想像に難くない。その意味では、ほかの軍記物とも共通した一面も持っている。

本書は「上田軍記」の現代語訳と原文の二部構成とした。現代語訳についてはできるだけ原文に沿うよう努めたつもりであるが、要約したところも数か所ある。原文については、まえがきにも紹介した『蕗原拾葉』所載の「上田軍記」を底本とし、北条家本・清水家本ほかによって若干の修正を加えてある。また、真田信之については、前半では 信幸 を、後半では 信之 を意識して使用した。理由は、関ヶ原の戦い以後真田信之が徳川氏にはばかって父昌幸と同じ「幸」を使わずに「之」を使うようになったためである。

表現の稚拙なところはもちろん、勝手な思い込みによる間違いもあるかと思うが、先学諸氏および読者の皆さんの温かなご教示をいただけたらと願っている。現代語訳と原文の二部構成としたのは、そのような意図があったことと、これを機会に原文の全体を広く研究者はじめ同好の皆さんに供したいと考えたためである。
終わりに当たって、本書の作成に関し「上田軍記」の写本の所蔵者の皆さんはもとより、励まし支えていただいた皆さんに心より謝意を表したい。

二〇〇六年秋

訳者

写本