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苦労続きの家庭生活(1/2) 〜大学教授、医学博士として〜

大学教授として学生の教育と自身の研究に励む中、先生にとって忘れることのできない悲しいできごとがおきた。

明治31年(1898)3月、近所から火事がおき、先生の家も焼失してしまった。そればかりではなく、8歳になる長女の春子は、小学校でもらった優等の賞状を家から持ち出そうと、炎の中にとびこみ、煙にまかれて死んでしまったのである。

この時、ちょうど、東大医学会の会があり、先生は「脚気(かっけ)」について研究発表をする予定になっていた。家は火事で焼け、長女は焼死したという急報を受けた先生は気も動転するばかりに驚いたが、じっとその悲しみをこらえて、りっぱに約束の時間に宿題になっていた「脚気(かっけ)」の研究発表の責任を果たして、それから家に駆けつけたということは、また、山極先生を語るとき忘れることのできない有名な話になっている。

長男一郎は10年前、生まれると間もなく死んでしまったが、その悲しい思い出を少しでも和らげ、ときには忘れさせてくれるかのようにすくすくと成長してきた春子の突然の死は、3歳になる二男の二郎がいるとはいえ、先生の一家を悲劇のどん底に突き落としてしまった。

おりにふれ、ことにふれ、むじゃ気にとび回っていた元気なころのあの春子の姿が胸に浮かぶたびに「あの子も元気に育っていれば今ごろは…。」と、人知れずにそっと涙をふく先生であった。その一周忌に、先生は旅先の国府津(こうづ)から妻の包子(かねこ)に宛てて出した紙に、

を(お)しみても また惜しみても帰り来ぬ 昔とおもい あきらめよ君

という句が添えてあった。
春子の死は、もう遠い昔のできごとと思ってあきらめようという意味だが、これは先生が自分自身に言いきかせている句作ともみることができるだろう。

また、そのとき

雨(あま)だれの音にも思い出(い)ずるなり 留守もる人のいかに暮らすと

という歌を作って、一周忌を迎える悲しい家族の心に思いをはせている。

翌年5月、三男の三郎が生まれた。その子の成長を見守りながら、

亡き姉の遺身(かたみ)とも見よ 膝元に遊ぶ弟の笑う面影

と歌をよんでいる。

写真 山極家家族
明治33年頃、包子夫人と二郎(前列右)と三郎(左)
山極家は長男一郎が幼くして亡くなり、長女春子は明治31年に自宅が火事になった際に焼死するという悲劇に見舞われた。

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