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脚気の研究 〜研究と実績〜

東大の病理学教室では初代教授の三浦守治(もりはる)が脚気の研究を行った。山極先生も明治22年から大正4年ころにかけて長い間脚気に関心を持ち続けた。

当時、脚気の原因としては伝染病を考えるのが一般的だった。しかし三浦も山極先生も解剖の結果から、脚気は伝染病ではなく、中毒によるものだと考えた。三浦は青魚を食べることが原因だと主張したが、その証拠は得られなかった。三浦と違って榊順次郎は、米に寄生した黴菌(ばいきん)の毒によるという中毒説を唱えた。

1889年(明治22)に、バタビア(現ジャカルタ)の研究所にいたエイクマンは病院の残飯で飼われていたニワトリが脚気患者のような歩き方をすることに気づいた。この病気は糠(ぬか)で治せることがわかった。わが国の学者はこれをニワトリ白米病と名付け、ヒトの脚気と同じ病気かどうかを問題にした。山極先生は同じという立場を採り、米が消化管内で異常発酵して毒を作ると考えて実験したが、期待どおりの結果は得られなかった。

脚気の研究は、エイクマンのこの仕事と、新たに勃興してきた実験栄養学とがあいまって発展し、ビタミンの発見につながる。中毒説に基づく三浦・山極の研究はビタミン発見には結びつかなかったが、脚気の病理学の確立に役だった。

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『脚氣病論』完
明治31年(1898)9月刊行。当時、脚気は原因不明の国民病とされ、特に陸海軍では極めて深刻な問題となっていた。脚気の原因として様々な学説が唱えられていたが、山極の恩師三浦教授はフグ中毒に想を得た魚毒中毒説を提唱し、他の学者と対立していた。『脚気病論』は、三浦教授の説を実証するための研究成果をまとめたものであった。
本書は勝三郎が所持していたもので、日露戦争中に第二版のための校正が朱筆で書き込まれているが、脚気がビタミンB1欠乏症であることが判明したため、第二版は刊行に至らなかった。
〔東京大学医学図書館所蔵〕