倉沢家は、大字築地〔ついじ〕にある旧家で、過去帳に記された先祖のなかには明暦元年(1655)に没した人があり、また、所蔵古文書のなかには、元和九年(1623)以降の築地村年貢催促状などがあるので、江戸時代初期頃にはこの地に住んでいたものと考えられます。
倉沢家は享保九年(1724)に上田藩主から小泉組大庄屋に任命され、苗字帯刀を許されていました。所蔵古文書のなかに、享保八年から十九年までの家作普請帳があり、これらの普請は、大庄屋任命と関係があるものと考えられます。特に大庄屋任命以後の普請は、代官等を客として迎えたり、大庄屋としての格式を整えるためのものとみられます。
現在の倉沢家の屋敷は、旧道から細い路地を入った奥まった所にありますが、元は旧道に沿った土地も屋敷地に含まれていたようです。
倉沢家の屋敷内には、主要な古い建物として、次の七棟があります。
倉沢家住宅は、痕跡から最初は主屋のみが独立して存在し、その後に客座敷が増築されたことがわかりました。主屋もかなりの改造が行われており、当初の規模は、奥行5間(背後の一間は増築)、間口10間強でした。主屋には、
などの特徴があります。東信地方の古い民家として知られている重要文化財の春原〔すのはら〕家住宅(東部町、推定17世紀中期 - 後期)、旧佐々木家住宅(旧所在地八千穂村、享保十八年頃)と比較してみると、倉沢家は、佐々木家よりも一時代古く、春原家とほぼ同時期の17世紀の中期から後期に建てられたと推定されます。
客座敷の建設年代は、内部の意匠からみても、享保時代の建設と考えられ、家作普請帳のうち、享保十二年(1727)のものが客座敷の建設を示しているのではないかと考えられます。客座敷は、十畳二室と八畳の「とりつぎ」があり、床の間や欄間等で意匠を整えたもので、大庄屋が代官等を接待するのに相応〔ふさわ〕しい造りになっています。倉沢家の客座敷のように、江戸時代前期の民家の客座敷は、最上層の家のみが、別棟の座敷を建てるのが一般的でした。
倉沢家の主屋は重文の春原家住宅や、小松家住宅(塩尻市、17世紀後期頃)と並び県内では、最も古い年代に属しており、当初の間取りがほぼ復元可能である点や付属建物がそろっている点でも貴重な民家です。
屋敷入り口
客座敷・主屋外観
主屋内部
客座敷内部
配置図
主屋・客座敷復元平面図(享保期)
大河直躬博士復元