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信濃国分寺三重塔

種別 :国重文 建造物
指定日:明治40・8・28
所在地:国分1051・1052
年代 :室町時代中期

解説

今から1200年ほど前、朝廷は信濃とか越後とかいう国々に国分寺(僧寺と尼寺があった)という寺を建てさせ、国家の平和を祈らせました。信濃の国では上田市の東方、今の信濃国分寺資料館のまわりに建てられたのですが、その大きさは、今の「しなの鉄道」の線路をこえて、はるかに南の方まで拡〔ひろ〕がっていました。すばらしく大きな建物でしたが、建ててから300年位の間に、この地方の戦いや災害によって、すっかり姿を消してしまいました。

その後、この地方の人々の心からの願いによって、国分寺は再び建てられることとなりました。場所は一段高い土地につくられ、三重塔まであるりっぱな寺ができました。薬師如来をお祀〔まつ〕りしましたので、土地の人は薬師堂と呼んでいました。しかし、国分寺であったころから、毎月八日の日に和尚さんが、お経を上げることになっていましたので「八日堂〔ようかどう〕」ともいわれました。とくに正月の八日にはお参りする人々がたくさんありましたので、今では上田の「八日堂」といった方がよく知られています。

姿が消えた古国分寺は、今の信濃国分寺資料館のまわりが一面の桑畑になっていましたのを、昭和38年から七回の発掘を重ねて、そこから、みごとに掘り出されたものです。

現在の国分寺(八日堂)にはりっぱな三重塔が建てられています。室町時代に建立されたものですが、さすがに国分寺の名にふさわしい、堂々たるものです。

いくぶん強く反〔そ〕った三層の屋根は、美しい曲線を空に描き、しかも塔全体がしっとりと落ちついています。「和様〔わよう〕」という手法で統一されているため、整った感じがするりっぱな塔です。よく見ますと、柱や窓、その他いろいろな形が、国宝大法寺三重塔(青木村)とよく似ていますので、外見はそれにならったかも知れません。

しかし内部は違います。第一層の中をみますと、中央に四天柱〔してんばしら〕(四本の柱)を立て、その中央に仏をお祀りしてあります。その場所だけは天井を一段高くして、鏡天井〔かがみてんじょう〕をはってあります。特別高貴な如来が居られるからです。 

また、この天井の外側の四方は「如意頭文〔にょいとうもん〕」という珍しい彫刻で、囲まれています。中国から渡ってきたもので、「禅宗様〔ぜんしゅうよう〕」という建築に使われる飾りです。だからこの塔は外は「和様」内部には「禅宗様」のところがあるので、「和様」のところへ、「禅宗様」をとり入れた塔とも言えます。一層の内部には、今も色のあとが残っていますが、建てた当時の内部は赤や緑の色がぬられていて、とても美しかったと想像されます。

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