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奈良尾石造多層塔[彌勒佛塔]

種別 :市指定 石造物
指定日:昭和44.6.5
所在地:富士山宮林
年代 :弘安8年

解説

奈良尾の鎮守である富士嶽〔ふじたけ〕神社西側の大変眺望〔ちょうぼう〕のよい場所にこの七重の石造塔が建てられています。

初層の軸部(塔身)の四面に、左まわりに「彌〔み〕・勒〔ろく〕・佛〔ぶつ〕・塔〔とう〕」と一字ずつ籠字〔かごじ〕(字の輪郭だけ写した文字)という珍しい書体で彫られているところから別名「彌勒佛塔」といわれています。

この石造塔の台石には、弘安〔こうあん〕八年(1285)乙酉〔きのととり〕三月八日と二行に陰刻〔いんこく〕されており、建てた年月がわかる鎌倉時代の貴重な石造塔のひとつです。

総高は237cmで、初重と上部の七重へかけての屋根の大きさに差が少ない石造塔です。屋根の降〔くだ〕り棟〔むね〕も直線に近く、軒裏には一重の垂木形を刻み出していますし、軒の反〔そ〕りもゆるやかで清楚〔せいそ〕な塔といえます。

六重目・七重目の屋根と相輪〔そうりん〕は、昭和28年に復元〔ふくげん〕されたもので、当時のものと見まちがうほどの立派な出来ばえです。

この石造塔は、当時この地方一帯を治めていた北篠国時(塩田陸奥守)が、弘安四年(1281)蒙古の大軍が再び日本へ攻めてきた折(弘安の役)、奈良尾にあった城光寺〔じようこうじ〕のお坊さんたちに国の一大事を救うべくお祈りをするよう命じました。するとたちどころに暴風〔ぼうふう〕が起こり蒙古軍が全滅〔ぜんめつ〕してしまいました。そこで仏様へのお礼と、戦死をした多くの兵(侍)たちの供養を兼ねて造られたものといわれています。

最初に建てられていたところが、丸子町と境を接している富士嶽(標高1034m)近くの山頂であったため丸子町(和子〔わご〕)との間に所有権をめぐって、いざこざがありましたが、大正七年(1918)ごろ現在の場所へ移されたものです。

地元の人たちから「奈良尾のお彌勒〔みろく〕さん」と呼ばれています。