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上塩尻の板碑

種別 :市指定 石造物
指定日:昭和44.5.9
所在地:二の丸3-3(博物館)
年代 :

解説

しなの鉄道が通る上塩尻の沿線北側に「信福寺〔しんぷくじ〕」という地名があります。江戸時代中頃の宝永〔ほうえい〕六年(1709)この付近一帯の地直〔じなおし〕(開田)をした時に板碑やそのかけらが多数出土し、そのうち欠損〔けっそん〕の少ないものを10枚、上塩尻の佐藤家(現当主佐藤邦子)が保管していましたが、その後市立博物館へ寄託をされました。

出土した板碑は、鎌倉時代から室町時代にかけてのもので嘉元〔かげん〕二年(1304)から宝徳〔ほうとく〕四年(1452)までの148年間にわたっており、これだけの板碑が一か所から揃〔そろ〕って出土したことは珍〔めずら〕しく、この地方の板碑の時代的変せんを知る上で貴重な資料となっています。

板碑は、五輪塔や宝篋印塔〔ほうきょういんとう〕の次にうまれた石造塔で主に近親者の冥福〔めいふく〕を祈るために造られましたが、死んだ後は必ず極楽浄土〔ごくらくじょうど〕へ行けるよう生きている時に仏にお願いをしておく目的でも造られたものです。

この板碑のほとんどは、阿弥陀三尊〔あみださんぞん〕という形式で、阿弥陀如来・観音菩薩〔かんのんぼさつ〕・勢至〔せいし〕菩薩の三つの仏を表わす梵字〔ぼんじ〕と蓮〔はす〕の華〔はな〕の形を薬研彫〔やげんぼり〕にしてあります。

さて、信福寺というお寺については、定かな事はわかりませんが、言い伝えでは古くからあったお寺で、文禄〔ぶんろく〕二年(1593)の大洪水により、跡形〔あとかた〕もなく押し流され絶えてしまいお寺の地名だけが残ったといわれています。


応永二十七年十月十四日


正中二年三月 日


嘉元二年八月 日