石灯籠全景
(後方の森は八幡社)
(地上からの総高約8.6m)
塩田の五加八幡社西参道脇に、めったに見ることのできない、大きな石灯籠が建っています。地上からの総高約8.6m。この大きさは、上田市はもちろん県下に、その類を見ないほど雄大で、思わず目をみはるものがあります。しかも、明治31年(1898)完成以来、地震にあってもびくともせず、いたんだ所が一つも見あたりません。
この石灯籠を建設しようと発議し、実行にたちあがったのは、江戸末期の文久元年(1861)、当時の五加村青年有志21名でした。建設経過の記録によりますと、発願・計画・いく度かの失敗等が記されておりますが、大要は次のようです。
青年たちは、まず、産川沿いの下河原の荒地を開墾して桑畑をつくり、その桑を売った代金を積立てて資金にしました。しかし、その積立金が思うように入らなかったので、明治10年桑畑を売り、金1160円余の収入を得ました。
このお金で、いよいよ大石灯籠建設の仕事を進めることにしました。最初の仕事は石材集めです。ところが巨石を野倉・別所・前山方面から集めることを考えましたが、人力のみで集めることは容易なことではありませんでした。
多額の費用と、たくさんの人々の労力をもってようやく、明治26年(1893)必要な石材の大部分を、八幡社境内へ集めることがました。
勝海舟書「修善生洪福」
しかし、この時すでに計画から32年もの長い年月が過ぎ、そのうえ、汗と労力によって得た資金も、使い果たしてしまいました。
これ以上発起人の青年の力のみで、難事業をやりとげることは、とうていできないと考えられ、中途ではありましたが、青年一同涙をのんで明治28年3月五加村の事業に移すことにしました。
この青年たちに感動した村は、翌年3月工事をはじめ、2年後の31年5月に巨大な石灯籠は、りっぱに完成されました。しかも石灯籠の竿〔さお〕石正面に、幕末・明治期の偉人勝海舟〔かつかいしゅう〕の筆による「修善生洪福」(善を修め洪福〔こうふく〕を生む — よいことを行なえば、たくさんの幸福が生まれる)の五字が、力強く刻まれています。