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秋和大蔵京古墳

種別 :市指定 史跡・名勝・天然記念物 史跡
指定日:昭和44年5月9日
所在地:秋和1391
年代 :4世紀終末〜5世紀前半頃

解説


大蔵京古墳全景

大蔵京古墳は、秋和地区の北側にそびえる虚空蔵山〔こくぞうさん〕南麓の見晴らしの良い傾斜面に、自然の地形を利用して造られています。古墳の形は方墳〔ほうふん〕とされていますが、かつて双子塚〔ふたごづか〕とも呼ばれたことがあり、前方後円墳とみられた時期もありました。これは東側にある古墳状の盛土部分を含めてのものであったと思いますが、現在では西側にある墳丘〔ふんきゅう〕のみが古墳とされています。

古墳の東隣には、江戸時代に神社の社殿が造られたり、古墳の頂部には日露戦争戦没者忠魂碑などが建てられ、周辺は多少変形していますが、いずれも墳形を大きく変えていないため、墳丘の保存状態は比較的良好です。

墳丘の四辺は東西南北の方位にほぼ正確に一致していて、計画的に造られた古墳と思われますが、その規模は東辺32m、西辺34m、南辺35m、北辺33.5mの四辺形になっています。また、墳頂部は各辺8mあり、高さは約6mの比較的大きな方墳といえます。

古墳周辺の南側以外のところには、わずかに平らなところがありますが、この部分に溝を造った跡はみられず、その立地から古墳の回りに周溝〔しゅうこう〕や周堤〔しゅうてい〕などの施設は、初めからなかったものと考えられます。

かつて墳丘の南斜面から四点の土師器片〔はじきへん〕が表面採集されましたが、このうち二点は有段口縁〔ゆうだんこうえん〕(縁に段がついている形、図参照)をもつ大型の壷の一部とみられます。この土器は、表面の整形方法や赤く塗ったりしているなどの特徴から、およそ四世紀終末から五世紀前半頃の資料と推定されています。そして古墳の造られた年代も、この時期ではないかと考えられています。

今まで、当地方で最も大きい方墳として知られる東部町の中曽根親王塚古墳(5世紀後半)や、同町の塚原二号・五号墳(五世紀初頭)が古いとみられていましたが、それより、さらに古い時期の古墳と位置づけられています。上田盆地では、今のところ最も古い古墳と考えられます。


大蔵京古墳墳丘実測図と出土有段口縁壷形土器
(常木晃・望月保宏「上田市秋和八幡大蔵京古墳の実測調査」『信濃』38—4(1986)より)