皇子塚古墳全景(北西側より撮影)
皇子塚古墳は、西塩田の手塚地区にあり、台地の端〔はし〕の部分に位置しています。この場所からの眺〔なが〕めはすばらしく、塩田平をはじめとして、上田地方のほとんどを一望のもとにおさめることができます。
この古墳は古墳時代後期に築〔きず〕かれたと推定され、丸い形をした円墳〔えんぷん〕です。昭和49年に発掘調査が行われました。その結果、首飾〔くびかざ〕りとして身に付けた勾玉〔まがたま〕・管玉〔くだたま〕や耳飾りの金環〔きんかん〕、反〔そ〕りの無い直刀〔ちょくとう〕、鉄製の矢じり、馬の口に含〔ふく〕ませた轡〔くつわ〕金具、さらに須恵器〔すえき〕・土師器〔はじき〕などのたいせつな資料が多数発見されました。
古墳の大きさは、直径〔ちょっけい〕が14.8m、高さが3.3mです。棺〔ひつぎ〕をおさめた石室は南西方向に入口があります。石室の壁〔かべ〕には自然石を小口積〔こぐちづ〕みにし、崩〔くず〕れにくくしています。天井〔てんじょう〕部には大きな平石が三枚用いられていました。
皇子塚古墳石室
この古墳には「皇子塚」というりっぱな名前がつけられ、関心がもたれています。言い伝えによると、奈良時代の天平宝字〔てんぴょうほうじ〕八年(764年)の藤原仲麻呂〔ふじわらのなかまろ〕の反乱に登場する塩焼王かその子供が葬〔ほうむ〕られていると言われています。しかし、この伝承は古墳が築かれた時期とは合わず、史実とは考えられません。出土した資料や古墳の形状から、この地方を支配した有力な豪族の墓ではないかとみられています。