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信濃国分寺跡

種別 :国史跡 史跡(社寺・城館跡 廟所・墓地 産業史跡)
指定日:昭和5.11.19
所在地:国分1125ほか
年代 :

解説


信濃国分寺跡(昭和54年頃撮影 上田小県誌刊行会蔵)



八葉複弁蓮花文鐙瓦

国道18号線が上田市街地を東へぬける頃、右手を注意して行くとそこに信濃国分寺跡があります。中央を「しなの鉄道」が走っていますが、全面積129,340m2のこの広大な地域が国指定史跡の信濃国分寺跡です。

天平〔てんぴょう〕十三年(741)といえば今から約1250年ばかり前のことになりますが、この年、朝廷から全国の国々に国分寺を建てる詔〔みことのり〕(天皇のことばを書いた文書)が出されました。国家が栄えるようにと仏に祈るためでした。諸国はこの詔を受けてさっそく国分寺を造ることになりましたが、財政難などで思うようにはかどらず、全国的に建物が完成したのはこれから30年近くたった770年頃といわれます。



均整唐草文宇瓦

昭和38年から46年にかけてこの信濃国分寺跡の発掘調査が文化庁・長野県・上田市などの共同事業で行われました。その結果、坊さんの寺である僧寺〔そうじ〕の中門・金堂・講堂・回廊〔かいろう〕・塔・僧坊〔そうぼう〕などの建物跡が確認されました。また尼〔あま〕さんの寺である尼寺〔にじ〕も中門・金堂・講堂・回廊・経蔵・尼坊・北門などの建物跡が発見されました。

僧寺は東西176.6m、南北178.1mの築地塀で囲まれ、当時の長さで百間四方の大きさです。また尼寺は一辺が約148mの築地塀で囲まれ、80間四方と推定されています。この僧寺跡と尼寺跡は築地塀の間が約40mときわめて近くに並んで建てられました。全国でも僧寺と尼寺が並んで発見され、史跡として本格的に整備された事例は、信濃国分寺跡が最初とされています。



円面硯

遺物〔いぶつ〕は、瓦類〔かわらるい〕・土器類・硯〔すずり〕・古銭・鉄釘などがあります。このうち最も量の多い資料は瓦類で、トラック数台分の量が出土しました。瓦には屋根の軒先〔のきさき〕に葺〔ふ〕いた文様〔もんよう〕のある鐙瓦〔あぶみがわら〕や宇瓦〔のきがわら〕があります。とくに最初に屋根に葺かれた八葉複弁蓮花文鐙瓦〔はちようふくべんれんげもんあぶみがわら〕(写真参照)は奈良の東大寺の瓦に、均整唐草文宇瓦〔きんせいからくさもんのきがわら〕(写真参照)は法華寺北側出土の瓦に大変よく似ていることがわかり、注目されました。どちらも洗練〔せんれん〕された美しさをもった瓦です。当時は東山道〔とうさんどう〕を通して奈良 の都の文化が信濃へもたらされており、その様子が瓦の文様からもうかがうことができます。その他に素文鬼瓦〔すもんおにがわら〕・円面硯〔えんめんけん〕(写真参照)などが出土しました。



素文鬼瓦

昭和四十二年には、尼寺跡の北東側約200mの国道18号線沿いの地点から国分寺瓦を焼いたとみられる窯跡〔かまあと〕が二基発見されました。この窯跡〔かまあと〕は平安時代の初めに、国分寺の補修用の瓦を焼いたものと考えられます。国分寺の近くにほぼ完全な窯跡が発見された事例は全国的にも少なく、この窯跡は重要な遺構〔いこう〕とされ、観察施設が設置されて保存・活用が図られています。

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