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上田城跡

種別 :国指定 記念物 史跡
指定日:昭和9年12月28日
所在地:二の丸
年代 :安土桃山時代(天正11年1583)

解説


上田城跡本丸東虎口〔こぐち〕の石垣上に
立つ2棟の櫓〔やぐら〕と復原された櫓門



金箔鬼瓦片(二の丸の濠跡出土)

上田城は真田昌幸〔さなだまさゆき〕により16世紀の末、安土桃山時代に築かれました。そして、その築城後まもない時期に昌幸は二度も徳川氏の大軍に攻められながら、この城に立てこもって、これを撃退したことで知られています。

この上田城は上田盆地のほぼ中央の地に位置する平城〔ひらじろ〕で、千曲川(その分流尼ヶ淵〔あまがふち〕)に望む段丘の崖〔がけ〕を利用して築城されています。現在、公園化されているのは、本丸・二の丸と周囲の濠〔ほり〕跡の範囲です。



本丸の土居〔どい〕鬼門除〔きもんよ〕けの隅欠
〔すみおどし〕部分、二の丸もやはり鬼門の方角
(北東)の隅が欠かれている。

濠・土居〔どい〕(土塁)・石垣については、本丸では西側の入口(虎口〔こぐち〕)の片側の石垣が取り払われているほかは、ほぼ昔のままに残っています。二の丸については、「三十間堀〔さんじっけんぼり〕」が埋め立てられたり、北西側の「百間堀〔ひゃっけんぼり〕」と呼ばれた大規模な濠跡が土居の法〔のり〕面(土手)を観覧席に利用した陸上競技場や野球場に改修されたりしています。けれども、全体的にはもとの姿が分かる程度には形を残しています。なお、この二の丸北側の大水濠〔すいごう〕は矢出沢川〔やでさわがわ〕の流れていた跡を改修したものと考えられています。矢出沢川のもとの川筋はこの大濠となり、付け替えられた新流路は、城の北と西を囲む実質的な外堀とされたのでした。



本丸の濠〔ほり〕

建物については、本丸の周囲に7棟〔むね〕あった隅櫓〔すみやぐら〕のうち3棟が残っていて、長野県宝に指定されています(「上田城櫓」参照)。

真田昌幸が天正〔てんしょう〕十一年(1583)に築城を開始した上田城は、はじめは徳川勢力の、ついで上杉勢力の、それぞれの最前線基地として、周辺の諸領主の助けもうけて大規模な工事が行われたもようです。そして、徳川軍との最初の戦いがあった同十三年には、一応の形ができていたようです。ただし、この時点での上田城は実戦の役に立つことだけを考えた、簡素なものだったと考えられます。



上田城跡遠望 昭和戦前。
隅櫓(西櫓)が一つだけ残る。

天正十八年、信濃の各地に秀吉の部下の大名が配置されました。そして、これ以後、その大名たちにより安土城や大坂城にならった大規模な城郭築造工事が行われ、石垣が築かれ瓦葺〔かわらぶ〕きの櫓が建てられ、松本城のような天守閣も建設されました。このような周囲の情勢を見て、真田昌幸も居城の大改修に乗り出したと考えられます。その証拠として、上田城の本丸や二の丸の濠などから出土している金箔〔きんぱく〕を貼〔は〕った鯱〔しゃち〕瓦や鬼瓦の破片、桐の文様の鬼瓦、菊花文様〔もんよう〕の軒丸〔のきまる〕瓦などの桃山時代に特徴的な瓦が挙げられます。かなり立派な城郭建築が本丸にはもちろん、二の丸にも濠に面して建てられたものとみてよいでしよう。



金箔鬼瓦片(二の丸の濠跡出土)

しかし、真田氏の築いた上田城は慶長五年(1600)の関ヶ原合戦後に破壊されてしまいます。建物はもちろん壊され、濠も埋〔う〕められてしまいました。これは関ヶ原合戦のおり、真田昌幸・幸村(信繁〔のぶしげ〕)父子が西軍につき、上田城に立てこもって、徳川秀忠軍が西へ向かうのをくい止めたことに対する処分のひとつであったことは、よく知られています。

真田氏のあと上田藩主となった仙石忠政〔せんごくただまさ〕は、幕府の許可を得て寛永三年(1626)から上田城復興工事にとりかかっています。この時の縄張〔なわば〕り(郭〔くるわ〕・堀などの配置)については、城普請〔しろぶしん〕について指示した忠政の覚書きや真田氏時代の瓦の出土状況などからみて、埋め堀をふたたび掘りあげるなどして、元の姿に戻すことを基本としていたことは間違いありません。



正保四年(一六四七)上田城絵図
(部分 国立公文書館蔵)

ただ、真田昌幸の上田城は堀と土塁が防備の中心で、石垣はなかったとみられますが、仙石氏再建の上田城では本丸・二の丸の入口部分に石垣が築かれました。これは大部分が「打ち込みはぎ」という、ある程度加工して積みやすくした石を使う方法がとられています。石材については、近くの太郎山などからとれる緑色凝灰岩〔りょくしょくぎょうかいがん〕が主に使われています。

このように上田城は復興工事が始められました。しかし、二年後の寛永五年に仙石忠政が病死し、工事は中断されてしまいます。そのため、本丸については隅櫓が七棟と櫓門が二棟できるなど、一応の体裁〔ていさい〕が整いましたが、本丸・二の丸の中に御殿〔ごてん〕は造られず、二の丸・三の丸については櫓や城門など、城郭らしい建物は全く建てられませんでした。近世(江戸時代)の城としては未完成の姿ですが、このままの状況で明治維新にまで至ったのです。江戸時代は平和な時代が続き、城郭は支配者の権力の象徴としての意味をもっていただけでした。真田信之〔のぶゆき〕は上田城が壊されたあと、三の丸に藩庁も兼ねた藩主居館(今の上田高校の所)を築きましたが、これだけで十分だったのです。

上田城主の在城期間は真田氏が二代で天正十一年から元和〔げんな〕八年(1622)まで、そのあと仙石氏が三代の間で宝永三年(1706)まで、それ以降が松平氏で明治の廃藩まで七代にわたりました。

上田城は明治7年(1874)に払い下げとなりました。本丸の隅櫓についても一つを残して、あとは取り壊されたのですが、このうち二つについては、市内の別の場所に移されていました。 これについては、戦時中の昭和18年(1943)から戦後にかけて、本丸入口の現在の場所へ再移築されました。また、近年本丸東虎口の櫓門が再建されるなど、廃城前の姿への復原をめざして整備事業が進められつつあります。

上田城は真田昌幸のときに、二回にわたって徳川軍の攻撃を迎え撃〔う〕ったわけですが、このような二度もの実戦の歴史をもつ近世城郭は全国的にも例はありません。しかも数少ない兵力で大軍を退〔しりぞ〕けた名城として、早くに国の史跡に指定されたものです。また、上田城は天守閣もなく石垣も少なく、見ばえのする城郭ではありません。しかし、土塁が主体で中世的な面影をよく残している城跡として、貴重な存在と言えるのです。



空から見た上田城跡

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