塩田城跡建物跡全景
塩田城跡は、塩田平の南方にそびえる独鈷山の一支脈である弘法山の北山麓にあり、塩田平を一望できる位置にあります。神戸〔ごうど〕川と御前沢〔ごぜんざわ〕にはさまれた南北約700m、東西の最大幅約180mにわたる山腹一帯には、二十数段に及ぶ階段状の帯郭〔おびくるわ〕がみられ、また、その北側前方部の空堀跡の向かい側には広い平坦面が続き、城跡の大きさが想像されます。さらに、その北方前面には、かつての侍〔さむらい〕屋敷町の面影をよく残した東前山の集落が、南北約700m、東西約200mにわたって展開しています。
元弘三年(1333)、塩田の地を治めていた塩田北条氏が滅亡した後、ここは坂木(城)を本拠とした勢力者村上信貞の領地となったことが記録にみえます。村上氏は、室町中期以後重臣福沢氏をこの塩田城におき、前線基地として長い間統治してきました。しかし、天文二十二年(1553)に甲斐(山梨県)の武田信玄の侵攻によって、城は奪われてしまうのです。武田氏は、この城に飯富〔おぶ〕氏を常駐させて信濃経略の拠点としますが、天正十年(1582)武田氏の滅亡により、ついに廃城となったという歴史があります。
この城跡は、昭和42年(1967)から昭和52年(1977)にかけて、数回にわたる発掘調査が行われ、前半は「空堀〔からぼり〕跡」の底部や規模の確認と、山麓中腹の「虎〔とら〕の口」と呼ばれる部分の石積み遺構・井戸跡などの発見がありました。また、昭和50年から3ヶ年をかけて実施した、通称吉十平〔きちじゅうだいら〕と呼ばれる平坦面の本格的な発掘調査では、礎石を伴う五間×五間の建物跡・溝跡・敷石遺構・土坑〔どこう〕などの遺構や、それに伴う豊富な遺物を検出しました。確認された遺物は、皿・内耳鍋〔ないじなべ〕などの土師質〔はじしつ〕土器、珠洲〔すず〕系土器の甕〔かめ〕、常滑〔とこなめ〕系大甕・瀬戸系天目茶碗〔てんもくちゃわん〕などの陶器類、さらに青磁〔せいじ〕・白磁〔はくじ〕・青花〔せいか〕などの中国製磁器類、銅銭・こうがい・小柄〔こづか〕・刀子〔とうす〕・銅鏃〔どうぞく〕・鍔〔つば〕・鉄釘などの金属製品、硯〔すずり〕・砥石〔といし〕・石臼などの石製品、また塗物〔ぬりもの〕・曲物〔まげもの〕・将棋〔しょうぎ〕の駒・人形・箸〔はし〕状木製品・建築部材などの木製品などがあります。
このうち、大陸から渡来した磁器類や常滑系・瀬戸系陶器類は、室町時代後期のものと推定され、検出された遺構もこの時期であろうとの想定がなされました。したがって、かつて鎌倉時代の信濃守護所跡であろうという説は、間違いということになりました。ただし、鎌倉時代塩田に入った、塩田北条氏の館跡は、この集落の北端に想定されています(『長野県史』中世編参照)
塩田城跡 礎石を伴う建物遺構
塩田城跡出土の将棋駒・人形