上田城本丸跡の石垣上に立つ三棟〔むね〕の二階建ての建物です。櫓とは城郭〔じょうかく〕で遠くの敵のようすをうかがったり、射撃のために城壁〔へき〕などの上に設けた高い建築物をいいます。
元和〔げんな〕八年(1622)、真田氏にかわって上田藩主となった仙石忠政〔せんごくただまさ〕は、寛永三年(1626)に幕府の許可を得て、上田城復興工事にとりかかりました。しかし、忠政は同五年に病死し、工事も中断したままになってしまいます。そのため、この櫓もこの間に建てられたものと考えられます。
櫓は本丸にだけ建てられたのですが、ほとんど同じ形のものが全部で7棟ありました。いずれも建て直した記録はありませんので、寛永の建物が明治維新に至るまで、そのまま揃〔そろ〕って立っていたものと考えられます。それが、明治の廃城のおり、1棟(西櫓)を残してあとは取り払われてしまいました。このうち2棟については、市内に移築されて残っていたため、昭和18年(1943)から同24年にかけて、本丸の東(表)側入口(東虎口〔こぐち〕)の現在の地へ再移築されました(南櫓・北櫓)。
三棟ともに規模は全く同じで、一階は桁行〔けたゆき〕9.85m、梁間〔はりま〕7.88m、二階は桁行8.64m、梁間6.67mです。二階は一階より二尺(60.6cm)ずつ内側に入れた梁〔はり〕の上の土台に柱を立てています。つまり、一・二階を通している柱はなく、一階の上に縦〔たて〕横とも四尺ずつ縮小した二階を、そっくり乗せた形となっています。屋根は入母屋〔いりもや〕造りで本瓦葺〔ほんかわらぶ〕きです。
外の壁〔かべ〕は一・二階ともに下の3分の2ほどを横板張りとし、その上から軒下〔のきした〕の部分は、そっくり土壁でおおう「塗籠〔ぬりごめ〕」としています。この形は寒冷地に多く、また初期城郭建築の様式でもあります。上田城の櫓は初期の建物ではありませんが、真田氏創建当時の古い形式にならっているのかもしれません。城の修築は元通りに直すことが原則であったことからみても、真田昌幸の建てた櫓も同様のものだった可能性は高いと言えましょう。
この三棟の櫓は上田城跡のシンボルとして大事にされていますが、中でも西櫓は江戸時代初期に建てられたままの城郭建築として特に貴重な建物です。なお、この櫓の中心の丸柱には、仙石氏の「仙」という字の刻印がいくつも押されています。