火定様の墓の上に建てられて
いるお堂(入口正面の額「涼火」)
奈良尾の富士嶽〔ふじたけ〕山の麓に大円寺があります。この寺の第九代の和尚さんに徳邦〔とくほう〕という方〔かた〕がいました。この和尚さんが、宝暦二年(1752)十月二十九日卯〔う〕の刻(午前六時)自ら火の中で焼死をしたのです。
和尚さんは、寺にあった白檀〔びゃくだん〕・栴檀〔せんだん〕(共にすばらしくよい香りの木)や山内の杉・松などの香りのよい木を寺の境内に積みあげ、体に香油をぬって自分で火をつけました。そして積みあげた香木の一番上に静坐し、一心不乱〔いっしんふらん〕にお経を唱えながら、命を絶ったのです。このように和尚さんが自分から焼死することを「火定」といいます。このことがあってから人々は、和尚さんのことを「火定様〔かじょうさま〕」と呼ぶようになりました。
「當山九代 大和尚入火宅之墓」
どうしてそのようなことをしたのでしょう。理由は二つあったようです。一つは仏教の「仏に供養〔くよう〕するなかで、身を焼くことが最高の供養」という教えの信仰から。二つにはそのころ恐ろしい伝染病はしか(五・六歳ぐらいの幼児がかかる病気今は予防注射で、ほとんどかからない)が大流行して、いく人もの子供が亡くなりました。和尚さんは、たいへん悲しみ自分の命にかえて、病んでいる人たちの命〔いのち〕ごいのために火定に入ったともいわれています。
火定の翌年宝暦三年三月、和尚さんの遺骨をうめたその上に角柱の石塔が建てられました。石塔の三面には、和尚さんの徳をたたえる長文が刻まれています。