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活文禅師遺跡(龍洞院)

種別 :市指定 史跡(社寺・城館跡 廟所・墓地 産業史跡)
指定日:昭和44.5.9
所在地:蒼久保232
年代 :文政5年〜天保14年

解説


龍洞院本堂

近代国家の創設〔そうせつ〕に身命をささげ大活躍をした幕末の志士〔しし〕、佐久間象山や赤松小三郎、それに高井鴻山〔こうざん〕、山寺常山〔じょうざん〕、竹内八十吉〔やそきち〕らの文化人など多くの著名〔ちょめい〕人を育てあげた活文禅師は、45歳の時龍洞院の住職として迎えられました。

活文が岩門(神科)大日堂へ移るまでの約6年間、この龍洞院で過ごしたことから、活文が残したすぐれた遺墨〔いぼく〕や遺品〔いひん〕などが数多く保存されています。

このうちのいくつかを紹介しましょう。

『遺贈龍洞院書籍目録
〔いぞうりゅうどういんしょせきもくろく〕
八枚つづり

天保十三年(1842)68歳のときの書で、蔵書の目録をつくり、龍洞院へ贈るために記したものです。この目録で禅師がどんな本でどのような勉強をされたのかがわかります。


『壬午仲春
〔じんごちゅうしゅん〕の書』

文政五年(1822)48歳のときの書で、一片〔いっぺん〕の詩文ですが、その書きぶりといい、詩の内容を思い巡〔めぐ〕らすとき活文の様々〔さまざま〕な想いをかいま見ることができる書といわれています。龍洞院の入口両脇の石碑に刻んで、活文禅師の心を伝えています。


『没後申置数件
〔ぼつごもうしおきすうけん〕の書』
四枚つづり

天保十四年(1843)69歳のときの書で、活文が亡くなりその後の葬儀のやり方を詳細に指示をした大変めずらしい書付です。



活文禅師自作木像

「活文禅師自作木像」

活文が、いつごろ制作したものかわかってはいませんが、曲〔きょく〕彔(坊さんがかける腰掛)に腰をかけた姿をし、平常は厨子〔ずし〕の中に収められています。

彫刻の面でも卓越〔たくえつ〕した技能をもっていたことがわかります。

そのほか、寺子屋の手本(教材)となった「階書千字文〔かいしょせんじもん〕・草書〔そうしょ〕千字文」及び「鳴鳳在竹〔めいほうざいちく〕」の書「高橋泰輔〔たいすけ〕に贈る詩」などは、よく知られています。


活文の龍洞院での生活は、自由闊達〔かったつ〕に振るまうことはなく、むしろ窮屈〔きゅうくつ〕なものであったようです。


高橋泰輔に贈る詩

生来〔せいらい〕学問好きであった活文はこの気晴しに子供たちや若者相手に読み書きを教えたり、また世情についても語り聞かせることに生きる喜びを感じていたといわれています。

文政八年(1825)、いろいろな事情があって弟子の智舩〔ちせん〕というお坊さんに住職をゆずり岩門大日堂へ移っていきました。



活文禅師の墓碑(無縫塔)

一生気力が失〔う〕せることがなかった活文は、弘化二年(1845)、この世を去り遺骨は龍洞院と常田毘沙門堂の二か所に分納されました。龍洞院にある墓は、無縫塔〔むほうとう〕と呼ばれる形式のもので、正面には「十三代鳳山〔ほうざん〕活文竹庵〔ちくあん〕禅師」と刻んであります。

龍洞院の敷地はおよそ3800m2(約1200坪)あり、門、本堂・坐禅〔ざぜん〕堂・庫裡〔くり〕などの伽藍〔がらん〕が整えられています。