活友禅師追福之碑
中常田通りから桜木町へぬける道路ぞいに「毘沙門天〔びしゃもんてん〕」という仏を祀〔まつ〕っているお堂があります。
文政12年(1829)のころ神科岩門〔いわかど〕の大日〔だいにち〕堂から「活文禅師」という学識の豊かな和尚さんが移ってきて、お堂の脇に寺小屋を開き多聞庵〔たもんあん〕と名付けました。活文の名声は以前から広くいき渡っていたので、武士をはじめ農民や商人それに子供にいたるまで教えを受けたい人たちが殺到し、一時は1000人を越すほどでした。
活文は、教えを受けたい人に対しては誰にでも親切に接し、年齢や学力に応じた教え方をしたといわれています。
教え子の中には、幕末から明治にかけて大活躍をした佐久間象山・赤松小三郎・高井鴻山・竹内八十吉などの人物がいました。
活文は、安永四年(1775)松代藩の武士森五十三重喬の二男として生まれ、子供の時の名前は久五といいました。
常田毘沙門堂
10歳の時に和田村の信定〔しんじょう〕寺にあずけられ、出家〔しゅっけ〕をし和尚さんになりました。
文政二年(1819)45歳になった活文は、神川上青木にある龍洞院〔りゅうどういん〕というお寺の第十三代住職〔じゅうしょく〕として迎えられましたが、8年ほどでその職を弟子の智舩〔ちせん〕という和尚さんに譲り、大日堂(神科岩門)に入りました。
弘化二年(1845)五月、活文は毘沙門堂で亡くなり、享年71歳でした。遺骨は龍洞院と毘沙門堂に分納されました。
活文の開いた多聞庵は大正11年(1922)に取りこわされたのでどのような建物であったかは、はっきりしません。
毘沙門堂は、大正15年(1926)に建てられたものです。昭和3年活文の史跡と遺徳を後世に末永く伝える目的で、お堂の前に活文の追福の碑が上田市長などが中心になり建立されました。その際に分納されていた活文の遺骨が埋葬されました。