竹内善吾武信墓
江戸時代の文化天保〔てんぽう〕年間(1804 ― 44)にかけて、日本で一、二とまでいわれた算術(算数)の学者は、上田市出身の人です。
その人は算術の大家〔たいか〕竹内善吾武信です。竹内善吾のお墓は呈蓮寺境内の墓地にあります。
善吾は、天明二年(1782)上田市山田の農家の子供として生まれ、子供の時の名前を「熊蔵〔くまぞう〕」といいました。熊蔵は幼いころから和算〔わさん〕(算数)が大好きで、算盤〔そろばん〕を使った特別の方法による割算は、他に並ぶ者がいなかったといわれています。
熊蔵は、もっと勉強をしようと思っても家が豊かでなかったので、昼間は商家で働き、夕方から小諸までの往復10里(40km)の道のりを休むことなく通って学んだという努力家でありました。
この後、江戸へ出て関流の算術家関五太夫〔ごだゆう〕の門下に入り、算術のほかに測量術や暦学〔れきがく〕などを会得しました。そして自ら新しい学問の分野をあみ出すなどして、天下に名声を博しました。
このことは当然、ときの上田藩主にも知られることになり、文化八年(1811)農民としては異例ともいえる士分にとりたてられ河川工事や農地の調査測量などの係を担当しました。
翌年、名前を「善吾武信」に改めました。天保十二年(1841)江戸で作られた『当時名人算者鑑〔とうじめいじんさんじゃかがみ〕』の番付では、東の大関(この番付には横綱はない)となり名実ともに日本一となりました。
嘉永六年(1853)七十一歳で病気のため亡くなりました。遺骸〔いがい〕は、両親が眠る呈蓮寺の竹内家の墓地へ葬られました。
墓は総高108cm余りで、先端をわずかとがらせた四角柱の竿〔さお〕石に、竹内善吾武信とやや深みのある彫り方で刻まれています。