現在の上田高校の敷地は、そっくりかつての藩主(城主)屋敷の跡にあたります。同校東側の表門と、その両脇〔わき〕につづく土塀〔どべい〕・濠〔ほり〕・土塁〔どるい〕は、昔の面影〔おもかげ〕をよくとどめていて、上田市の文化財に指定されています。
慶長五年(1600)の関ヶ原合戦のあと、真田昌辛〔まさゆき〕の築いた上田城は取りこわされたため、跡を継いだ真田信之〔のぶゆき〕はここに居館を構〔かま〕えました。その後、上田藩主は仙石〔せんごく〕氏、松平〔まつだいら〕氏とかわり、上田城も復興されました。しかし、藩主邸はそのままで移転せず明治維新にまで至っています。
濠と土塁は真田氏のときからのものと考えられます(ただし、水際〔ぎわ〕の石垣は最近のもの)。また、土塀については意外に新しく、それまでの竹の矢来〔やらい〕(柵)にかえて幕末の文久三年(1863)に、建てられています。
表門は寛政元年(1789)に焼失したあと、その翌年に再建されたものです。前面に四本の太い柱(親柱〔おやばしら〕)が並び、中央に大扉〔とびら〕を釣り、左右には潜〔くぐ〕り戸が付いています。後ろ側は左右の控え柱を通し梁〔はり〕でつないでいます。これは薬医門〔やくいもん〕といわれる形式で、普通の門では親柱が棟〔むね〕の真下に立っているのに対し、その少し前に親柱が立ち、控え柱が後方にあるのが特徴です。
城主の御殿〔ごてん〕は一般には城の本丸に設けられています。しかし、上田城の場合は特殊な歴史的事情があり、三の丸とはいえ城の中心部からだいぶ離れた、この地に置かれたものです。
それにしてもこの屋敷は、藩政の中心施設である藩庁でもあり、実質的な上田城の本丸でもあったのです。この表門などは、その貴重な建築・史跡として、特に大切に保護していきたいものです。