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成沢寛経の墓(日輪寺)

種別 :市指定 史跡(社寺・城館跡 廟所・墓地 産業史跡)
指定日:昭和53.4.8
所在地:中央2-14-3
年代 :慶応4年

解説


成澤寛經奥城〔おくつき〕(墓)

江戸時代の終わりころ、家業の呉服〔ごふく〕店を営みながら、終生、地場〔じば〕産業などの発展に大いに尽し、上田藩においても在野の有識人として、高く評価された成澤寛經のお墓が、日輪寺にあります。

寛經は、寛政九年(1797)原町で生まれ、通り名を「金兵衛〔きんべえ〕」後に「七郎左衛門〔しちろうざえもん〕」といい、屋号を「百合舎〔ゆりしゃ〕」と称しました。俳句で有名な祖父雲帯〔うんたい〕から読み書きを教わり、歴史本や古典ものをよく読み、その蔵書数は数千巻にも及んだといわれています。また、郷土史にも精通し、詩歌を好み、鼓〔つづみ〕・琴〔こと〕・笛〔ふえ〕といった日本古来の楽器を嗜〔たしな〕むといった風流な面も持ちあわせていました。

家業のため江戸へ出た折に国学に興味をいだき、平田学派〔ひらたがくは〕の門弟となり江戸と京都を何回となく往復したことにより、各地で知名の学者と知りあうことができました。



寛經が復刻出版した大塔物語
たて30.5cm×よこ22.5cm

寛經は、長野市篠の井橋周辺で小笠原氏(信濃守護職)と地元の豪族らと戦った大塔合戦〔おおとうがっせん〕(応永七年(1400))の模様を、書いた軍記本〔ぐんきぼん〕『大塔物語』を私財を投じ嘉永四年(1851)に復刻(再製)出版をしました。

これは史料的にも文芸的にも価値が高く、長野県における室町時代の歴史を研究するには格好な書物といえます。

寛經は、慶応〔けいおう〕四年(1868)71歳でこの世を去りました。

お墓は成澤家の墓地内にあって、ひときわ大きく、総高が173cmで長方形の竿石〔さおいし〕には「成澤寛經翁奥城〔おくつき〕」(奥城とはお墓のこと)と独特の書体で刻まれています。

側面や背面には、寛經の経歴がこまごまと漢文で紹介されています。