京都 金戒光明寺にある墓碑
幕末、諸外国より開国を迫られ世情が不安定な最中〔さなか〕、この難局を救うには公武合体〔こうぶがったい〕(朝廷と幕府が一緒になること)をし、新しい政治体制を取り入れるべきと幕府に申し立てをし、近代国家誕生に大きな影響を与えた上田藩士赤松小三郎という人物の遺髪〔いはつ〕を埋めた墓が、月窓寺境内の墓地にあります。
小三郎は、天保二年(1831)上田藩士芦田勘兵衛〔あしだかんべえ〕の二男として木町で生まれ、幼名を清次郎〔せいじろう〕といいました。十八歳の時に江戸へ出て数学・測量・天文・蘭学〔らんがく〕や洋式砲術〔ようしきほうじゅつ〕などを学びました。
小三郎は、語学にも秀でていて、慶応〔けいおう〕二年(1866)に『英国歩兵練法』を和訳し、日本の兵制の基礎確立に貢献し、今でもその一部が用いられています。
京都で英国式兵学塾〔へいがくじゅく〕を開いていた時、薩摩〔さつま〕藩主(島津侯〔こう〕)より講師として迎えられました。そのときの教え子に東郷平八郎〔とうごうへいはちろう〕や上村彦之丞〔かみむらひこのじょう〕ら、明治の海軍の英才たちがいました。
月窓寺にある墓碑
慶応三年(1867)九月三日、京都の伏見〔ふしみ〕から所用で帰る途中、幕府の協力者と疑われ、待ちぶせていた薩摩藩士に襲われ兇刃〔きょうじん〕に倒れました。享年〔きょうねん〕37歳でした。遺骸〔いがい〕は京都黒谷の金戒光明寺〔こんかいこうみょうじ〕に手厚く葬られ、その後遺髪は上田へ送られました。
小三郎は、一般には洋式兵学者として知られていますが、政治思想史〔しそうし〕の上でも有名で、幕末のすぐれた先覚者でもありました。
墓は総高1m余りで、正面に「良鑑院松屋赤心居士〔りょうかんいんしょうおくせきしんこじ〕」と小三郎の法名がやや深みのある彫り方で刻まれています。