窯跡の現状
東馬焼窯跡は平井寺地区のほぼ中央部に位置し、窯〔かま〕を築いた林東馬の旧宅の西側の竹林の中にあります。林東馬は明治9年に48歳で亡くなっており、東馬焼を焼いた期間は江戸時代末期から明治時代初期と推定されています。林東馬の一族は代々平井寺の庄屋を勤めていました。林東馬も明治2年に庄屋を引継ぎ、明治7年には古安曽村の副戸長〔ふくこちょう〕を命じられています。
この窯跡は焚口〔たきぐち〕から煙を出す煙道〔えんどう〕の端まで、全長が12.5mあります。七個の焼成室〔しょうせいしつ〕(製品を焼き上げる部屋)をもった本格的な登窯〔のぼりがま〕です。各室の幅は焚口の平面で約1.3m、最上部の第七室の幅は約4.3mで、上段の室ほど広い構造になっています。約15度の傾斜面を利用して窯は築かれており、近世の窯跡として重要な史跡です。
東馬焼の製品
東馬焼きの製品は水がめ・塩がめ・火消つぼ・こね鉢・すり鉢・徳利〔とくり〕・急須〔きゅうす〕など主に日常生活に使用された陶器です。この窯の製品は瀬戸〔せと〕、美濃〔みの〕系で、本場の瀬戸、美濃方面の職人を招いて窯を築いて焼き上げたとみられています。東馬焼の製品は、現在も各地に残されており、釉薬〔ゆうやく〕(うわぐすり)を自由自在に用いたすぐれた陶器として大切にされています。