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国分寺本堂(薬師堂)

種別 :県宝 建造物
指定日:平成9年2月20日
所在地:国分1052
年代 :江戸時代末期(万延元年 1860)

解説

国分寺は天台宗の寺院で、本堂は薬師堂と呼ばれています。この本堂は、文政十二年(1829)に発願され、天保十一年(1840)に起工し、万延元年(1860)に竣工したものです。発願以来三十余年の歳月を費やして完成した建物で、11冊におよぶ「信濃国分寺勧進帳」も残されています。柱・梁〔はり〕・扉をはじめ屋根の瓦にいたるまで寄進者の名前が刻まれており、勧進の苦心と住職の思いが偲〔しの〕ばれます。

本堂は、主屋部分が間口9.7m、奥行14.6mの規模で、この周囲に幅2.4mの庇〔ひさし〕をつけているので、全体では間口14.5m、奥行19.4mの建物になります。構造的には、二階建のようにみえる入母屋造〔いりもやづくり〕の屋根が主屋の屋根で、周囲に一段低い庇が付いています。この庇を裳階〔もこし〕と呼んでいます。国宝の善光寺本堂(長野市)も二階建にみえますが、構造的には国分寺本堂と同じ裳階付きの建物です。

国分寺本堂は、主屋の前面に軒唐破風〔のきからはふ〕付きの向拝〔ごはい〕があります。向拝は、礎盤〔そばん〕に角柱を立て、水引虹梁〔みずひきこうりょう〕をいれ、唐獅子・象の木鼻〔きばな〕としています。水引虹梁の絵様〔えよう〕は一般的な渦・若葉の絵様ではなく、菊水の意匠を浮き彫りしています。こうした所がいかにも幕末らしい凝った手法といえるでしょう。虹梁の上には龍の彫刻があり、軒唐破風には鳳凰〔ほうおう〕の彫刻が付いています。

裳階の頭貫〔かしらぬき〕の木鼻には唐獅子の彫刻がついていますが、体の正面を向いているのでなく、こちらに振り向いた姿に彫っています。この振り向きの唐獅子を用いるのは幕末の建築にみられる彫刻意匠の一つです。

内部は、前側の外陣〔げじん〕(参詣の空間)、奥の内陣〔ないじん〕(仏の空間)にわかれ、内陣の両脇と背後の一間通りは入側〔いりがわ〕(僧侶の通路)となっています。外陣の天井を見ると、主屋部分は格天井ですが、裳階部分には天井がなく垂木がみえています。空間の序列が天井の意匠にも表れていることがわかります。

職人に関しては、大工棟梁が耳取村(小諸市)の田島喜平、彫工は上沢村(上田市)の竹内八十吉、瓦師は三河から招かれていることが文書に記されています。喜平と八十吉はともに当時この地の有力な大工・彫工でした。

本堂は近世の堂としては東信地方最大で、向拝の彫刻にみられる鋭い彫りや虹梁の複雑な絵様などに江戸時代末期の特徴がよくあらわれています。

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