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徳川家康日課念仏(常楽寺)

種別 :国重美
指定日:昭和9年5月18日
所在地:別所温泉

解説

天下を統一し江戸に幕府を開いた徳川家康は、大阪夏の陣の翌年、元和二年(1616)七十五歳で没しています。


家康に信頼の厚かった僧、天海(天台宗の僧・東叡山寛永寺の開山)は、晩年になった家康に対し、「いくたびかの戦で殺戮〔さつりく〕がくり返され、罪なき人々のたくさんの命が奪われている。自分の死後、極楽往生を願うならば、その滅罪の祈りをこめて写経することだ」とすすめたという話が伝えられています。史実かどうかは不明ですが、家康は晩年になり、自分の死後について、揺れ動く心を天海に打ち明けたためでしょうか。


常楽寺に伝わる家康の「日課念仏」は、署名の「慶長十七年六月九日家康」の日付けから、家康が死去する四年前の七十一歳のときに書かれたものであることがわかります。このことから、天海が家康に対し、滅罪のために写経することをすすめたという話は、単なる言い伝えではなく、史実にもとづく話であったのかもしれません。


この家康自筆と伝えられる「日課念仏」の実際の例は、現在までに全国で数点しか見つかっていません。しかも常楽寺に伝わるものは、その中ではいちばん長いものといわれております。この「日課念仏」には、「南無阿弥陀仏」と、阿弥陀如来の六字名号が、六段、110行に合計660体、墨筆で記されています。標題のとおりに「日課念仏」は、家康が阿弥陀如来の名号をとなえながら、毎日こつこつと祈りをこめて書いたものと思われます。


この書かれた660体の名号の中で注目されるのは、「南無阿弥家康」と書かれた箇所が6カ所もあることです。なぜ家康がこのように記したのかその目的はまったくわかりません。いずれにしても常楽寺に伝わるこの徳川家康自筆の「日課念仏」は、晩年の家康を知る貴重な遺例といえましょう。この「日課念仏」の本紙の大きさは、縦26.0cm、横140.0cmで、現状は額装されていますが、昭和九年五月十八日に、国の重要美術品(書跡)に指定されています。