この五反幟は、木綿地五反を矧合〔はぎあわあ〕わせたもので、左右が対になっており、それぞれ縦1197.0cm、幅166.0cmのみごとな大幟で、幕末の松代藩の兵学者であり漢学者である佐久間象山が、墨痕〔ぼっこん〕鮮やかに筆をふるっています。
書の年紀銘から、文久二年(1862)の三月に書いたことがわかります。古老の言い伝えによりますと、五加村の代表者八名が、松代の聚遠楼に出向き、象山に書いてもらいましたが、筆は藁〔わら〕の「みご」でつくり、墨をすること七日間に及んだとのことです。
対の二本の幟は「五加洪福村 玄墨淹茂(玄よく閹茂〔げんよくえんも〕) 三月」「八縣めいいん祠〔めいいんのほこら〕象山平啓 書」と揮毫されています。最初の幟の「洪福」は「鴻福」と同じ意味をもち、五加は大いなる幸せの村であるとたたえています。
「玄墨」は十干の壬〔みずのえ〕の異名であり、「淹茂」は十二支の戌〔いぬ〕のことです。したがって壬戌の干支は、文久二年(1862)にあたり、象山はこの文久二年三月この幟を書いたことがわかります。さらに「八縣めいいん祠〔めいいんのほこら〕」の「めい」は明の古字で、「いん」は、清め祀〔まつ〕ることを意味していますので、この「八縣」は、この八幡宮合殿にまつられた神の名です。したがってこの五加の村人たちが、産土神〔うぶすながみ〕である八縣宿祢神を明らかに清め祀っている祠に、この書を奉ると、象山は自分の神を敬う心情をあらわしていると解釈できるわけです。
象山は若い頃、中国東晋の王義之〔おうぎし〕、その子の王献之〔おうけんし〕の書を学んだと伝えられていますが、三十半ばを過ぎてからは、唐時代の能書家・顔真卿〔がんしんけい〕の書を学ぶようになりました。それは顔真卿の書が気品に満ちていること、人物が忠義で気節に高い人物であったことに感動したからです。
以後もっぱら顔真卿の書法を自分の書法としました。この五加の五反幟も、それから学んだ書法をもとに揮毫〔きごう〕しているわけです。