絵馬は「踊り念仏」と「六歌仙」で、二面を一組としています。画面の墨書によると、上州高崎本町の福田好道夫妻が、安永五年(1776)に、常楽寺の北向観音堂に奉納したものです。しかもこの二面の絵馬は、いずれも登場する人物が六人で、福田夫妻は、わが子の六人にちなんでこの二面の絵馬を奉納したものと思われます。六人のわが子がそろって成長したことを観音に感謝し、さらに今後ますます兄弟姉妹仲よく助けあって成人することを祈願しての奉納でしょう。子を思う親の温〔ぬく〕もりが伝わってくるようです。
この絵馬は、桐板材を用いた家屋形で、「踊り念仏」も「六歌仙」もともに、高さ85.5cm、幅118.0cmの大きさです。6人の踊り手が、満面笑みを浮かべ床が踏み割れんばかりに楽しそうに、しかもにぎやかに踊る「踊り念仏」。6人の歌仙が車座となり、緊張した静かなふんいきの中で黙々と歌をつくり合う「六歌仙」の二面は、「動」と「静」の一対の絵馬とみなすことができます。福田夫妻が、わが子たちがこれからのきびしい人生を、無事に乗り越えてほしいという願いをこめての奉納かと考えられます。
なお絵馬の「踊り念仏」の名称は寺伝によるもので、持物の小道具から「鹿島〔かしま〕踊り」ともいわれています。また「踊り念仏」は一遍上人がおこした念仏三昧〔ねんぶつざんまい〕の踊りです。六歌仙は平安時代初期の和歌の名手、在原業平〔ありはらのなりひら〕、僧正遍照〔へんじょう〕、喜撰〔きせん〕法師、大伴黒主〔おおとものくろぬし〕、文屋康秀〔ぶんやのやすひで〕、小野小町〔おののこまち〕をさしています。
絵馬を描いた絵師は、画面の墨書から二面とも鳥山石燕〔せきえん〕藤原奥虎であることがわかります。奥虎は江戸に生まれ、初めに狩野周信、後に狩野玉燕〔かのうぎょくえん〕に師事して絵を学びました。石燕の号は玉燕から与えられたものと伝えられています。しかし一説では、奥虎の俳諧の師匠東流燕志〔とうりゅうえんし〕から与えられたともいわれています。また石燕の門下からは、有名な江戸の浮世絵師、喜多川歌麿、栄松齋長喜、恋川春町らが輩出しています。