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銅造菩薩立像(長福寺)

種別 :国重文 彫刻
指定日:昭和15・10・14
所在地:下之郷

解説

こういう微笑〔ほほえみ〕みを、アルカイックスマイル(古代の微笑)というのでしょう。「夢殿観音」は、その笑みをたたえた柔和な表情で参詣者を迎えてくれます。現在この観音像は、長福寺の「信州夢殿」の本尊として祀〔まつ〕られていますが、頭部の正面に阿弥陀如来の小さい像(化仏〔けぶつ〕という)をつけていませんので、正しくは菩薩と呼ぶほうがいいわけです。


像高三六・七㎝の小像です。全体の釣り合いをみますと、頭部はやや大きめにつくられていますが、腰をひきしめた細身のからだは、流れるような曲線で美しい姿をみせています。そして笑みをたたえた柔和な表情は、小さな子どもの表情と同じです。このような顔のつくりを「童形〔どうぎょう〕」といいます。


さてこのような美しい菩薩の姿を少しくわしくみますと、頭頂の髻〔もとどり〕(宝髻〔ほうけい〕という)は一束に結う単髻〔たんけい〕で、垂髪〔すいはつ〕(たれ下がる髪)は波状に両耳の後ろから肩に懸かっています。そして頭の正面、左右の耳上に飾りをつけています。これを「三面頭飾〔とうしょく〕」といい、正面は上下二段の花形の飾りをつけています。また三面頭飾をとめる冠の帯は紐〔ひも〕状で、両耳上の頭飾からは、その二条の紐が両腕の臂〔ひじ〕の辺まで垂れ下がっています。


からだの上半身は上衣がなくて、両肩に天衣〔てんね〕(菩薩の着衣)を懸けていますが、その遊離部(からだから離れている部分)は両足の下まで垂れ下がっています。そして胸と両腕の手首に飾りをつけています。下半身は裳〔も〕(裙〔くん〕ともいう、袴〔はかま〕のような着衣)を着けていますが、左下がりに段差をつけた特徴のある折り返しになっています。


腰紐は裳の正面中央で花結びし、裳の裾に垂れ下げています。左手は臂〔ひじ〕を曲げ、第一指(親指)・第三指(中指)を捻〔ねん〕じ(指で輪をつくるようにすること)、他の指は軽く伸ばしています。右手は体側にそって水瓶〔すいびょう〕を下げています。以上のように菩薩は、天衣や裳の着衣のほかに、冠や首飾りなどの装飾品を身につけていますが、全体に調和のとれた伸びやかな、気品に満ちた姿をしています。


像のつくり方は、蝋型〔ろうがた〕(蜜蝋〔みつろう〕でつくった型)を用い、頭部から台座の蓮肉部(蓮の花の芯部)まで一回で鋳上〔いあ〕げています。ところが、いつの時代にか火災に見舞われ、かなりの損傷をこうむり全体に肌が荒れています。そして左手の臂〔ひじ〕より先、右手の水瓶の頸の部分より下、右腕の垂れさがる天衣、蓮肉部の上部をのぞく台座の全部、宝珠の形をした木製の光背は、昭和時代に入り補作されました。それにより台座の底部はふさがり、中空になっている像の内部をみとることができなくなってしまい、鋳造方法をくわしく調べることができないことは惜しまれます。


またこの菩薩がつくられた当初は、鍍金〔ときん〕(金メッキ)がほどこされていたものと考えられますが、火災にあったためか、すっかり剥落〔はくらく〕してしまいました。


日本に初めて仏教が伝来した六世紀前半(五三八)から八世紀の初め頃までの古代を、飛鳥〔あすか〕・白鳳〔はくほう〕時代と呼んでいますが、この頃、たくさんの小金銅仏〔こんどうぶつ〕がわが国でつくられました。初めは朝鮮半島から渡ってきた止利〔とり〕仏師一族などの仏師がつくっていたため、どことなく異国的なふんいきをもった金銅仏が多かったわけです。


しかし飛鳥時代の後半から白鳳時代に入りますと、かなり日本人の心になじんだ和風の金銅仏がつくられるようになりました。腰部をひきしめた均整〔きんせい〕のとれた流れるような細身のからだつき、そして笑みをたたえた柔和な表情、やわらかな体部の肉づけのこの菩薩像は「夢殿観音」とも呼ばれる、七世紀後半の白鳳時代の特徴をよく示しています。


信州には、飛鳥・自鳳時代をはじめとし、古代にさかのぼる貴重な小金銅仏が現在四体発見されています。銅造菩薩半跏像〔はんかぞう〕(北安曇郡松川村・観松院・七世紀前半)、銅造観音菩薩立像(長野市・丸山茂氏ほか・七世紀後半)、銅造菩薩半跏像(東筑摩郡波田町・盛泉寺・八世紀後半)、そしてこの銅造菩薩立像(上田市・長福寺・七世紀後半)がそれです。


この夢殿観音と呼ばれる菩薩像は、もとは上高井郡小布施町(旧都住村)の旧家に伝わるものでしたが、昭和十三年(一九三八)に長福寺へ移されました。そして菩薩を祀る信州夢殿が昭和十七年(一九四二)に建てられました。この夢殿は奈良の法隆寺の夢殿をそっくりまね、本物の二分の一の大きさに建てられています。屋根瓦は奈良で焼いたものを使用するなどの念の入れようです。