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木造薬師如来座像附木造神将立像(中禅寺)

種別 :国重文 彫刻
指定日:大正12・3・28
所在地:西前山

解説

薬師如来は、中禅寺本堂の南方、やや離れた所に東面して建てられた薬師堂(重文指定)の本尊として祀られています。わが国では古い時代から、薬師如来は、病気の苦しみから救ってくれる如来として、多くの人々の信仰を集めてきました。この薬師堂の薬師如来も、きっとこの地方の人々に厚く信仰されていたにちがいありません。


如来の姿は坐像で、蓮華座(蓮の花の台座)の上に結跏趺座〔けっかふざ〕(座禅をするようなすわり方)し、右手は臂〔ひじ〕をまげ、五本の指を軽く伸ばし正面に向け(施無畏印〔せむいいん〕という形)、左手も指を軽く伸ばし、手のひらを上にして(与願印〔よがんいん〕という形)薬壺〔やっこ〕(薬を入れた壷)をのせるなど、通例の薬師如来坐像です。


ただし左手先は、薬壺をふくめ後におぎなわれたものです。如来の半眼を開いたおだやかな目、整〔ととの〕った鼻筋、語りかけるような口もとなど、円満でふくよかな顔立ちは、病になやみ一心に拝む人々の心に、安らぎを与えてくれたにちがいありません。像高は97.8cmあります。


如来の姿をもう少しくわしくみていきますと、まず像全体のつくりは、寄木造〔よせぎづくり〕といって、頭、胴体、両腕、手首など、用材を組み合わせていることがわかります。用材は桂〔かつら〕材を用いています。如来の頭をみますと、その頂きは、椀を伏せたように盛り上がり、頭全体が二重になっているようにみえます。この盛り上がった頂きの部分を肉髻〔にっけい〕、その下を地髪〔じはつ〕といいます。そして全体に丸い粒がきれいにそろって刻まれています。


これを螺髪〔らほつ〕といいます。螺髪は髪の毛がちぢれたようすをあらわしているのです。御釈迦〔おしゃか〕様が出家をされたときに、指の幅二本分の長さに髪の毛を切りましたら、この螺髪のようにちぢれ、後は髪の毛は伸びることがなかったという話にちなんで、釈迦をはじめとし、如来はみな同じ頭につくるようになったといわれています。


また耳のつくりも同じで、この如来の耳たぶには孔〔あな〕があけられています。これも御釈迦様が出家をされたとき、耳飾りをはずしたことにちなんでいるといわれています。しかし如来によっては、耳たぶに穴をあけていないものもあります。つぎに如来が身につけている着衣ですが、これは法衣〔ほうえ〕(衲衣〔のうえ〕ともいう)といいます。よくみますと右肩はわずか懸〔か〕けていません。このような着衣のし方を偏袒右肩〔へんだうけん〕といいます。腰下は裳〔も〕(または裙〔くん〕ともいう)を着けていますが、如来の着衣はみな同じで印相だけが異なります。


像の作風をみますと、この薬師如来は、平安時代後期(藤原期)に隆盛した和様、いわゆる「定朝〔じょうちょう〕様」(仏師・定朝がつくり出した造像の様式)を基本にしたつくりで、顔の表情やからだ全体の表現は、穏やかで丸味を帯びています。しかしよくみますと肩や膝の張りが強く、法衣の襞〔ひだ〕(すじ目)の彫りも、定朝様と比較し、かなり深くなっていることに気づきます。


また顔の両眼や唇もかなり明快に刻まれています。このように全体的に定朝様とは異なった作風が入りこんでいます。それは後に、運慶一門によって確立された鎌倉彫刻の作風です。したがってこのように平安時代後期に隆盛した定朝様と、新しく流行してきた鎌倉様式の両方がみとれる仏像の特色を「藤末鎌初〔とうまつけんしょ〕」の作風と呼ぶこともあります。ですからこの薬師如来は、十三世紀の鎌倉時代初期につくられたとみられるわけです。


つぎに如来の光背〔こうはい〕と台座についてですが、光背は仏像の背面に置かれ、形は仏が発する光明を装飾的にかたどったものです。この薬師如来の光背でみますと、仏像の頭のうしろにあたる小さな円形部を「頭光〔ずこう〕」、さらにからだにあたる大きな円形部を「身光〔しんこう〕」といいます。これは如来のからだ中から光明を発していることを意味しているのです。


惜しまれることは、この光背は、その周囲の舟の形をした部分がなくなってしまったことです。けれども「頭光」の中心部に「宝相華〔ほっそうげ〕」という想像の花や、「身光」の下部に刻まれている、上に開いた花びらのような「光脚」などは、いずれも形がすぐれ、その彫刻はみごとなものです。


如来がすわる台全体を台座といいますが、いちばん上が蓮華座です。これは蓮の花の上に如来がすわっている様子をあらわしていますが、現在は、蓮の花びらはすっかりなくなり、蓮肉部(蓮の花の芯部)だけになってしまいました。その蓮華座のすぐ下に円板形の受座があります。そこに墨画のいたずらがきが描かれています。ふだんはみることはできませんが、馬に乗った武士が狩りをしている絵です。強く張った弓の弦に矢をつがえる武士、スピードをあげて駆ける馬、逃げまわる鹿など、素朴な筆つかいですが、力強く生き生きと描かれています。この墨画の題材や描き方が、鎌倉時代初期の特色をあらわしていることからも、薬師如来像は鎌倉時代初期につくられたものであることがわかります。


台座は上から蓮華座、受座、上敷茄子〔うわしきなす〕、蛤座〔はまぐりざ〕、受座、華板〔けばん〕、下敷茄子、受座、反花、三段の框座〔かまちざ〕の順に組み立てられていますが、下敷茄子より下は造立当初のものではありません。後の時代におぎなわれたものです。


最後に、薬師如来が祀られているお堂の内部について少しふれてみたいと思います。中央の四本の柱を「四天柱」といいますが、この柱にかこまれた場所に「須弥壇〔しゅみだん〕」(仏壇)があり、その上に如来が祀られています。須弥壇の周囲には、お椀のような曲線の文様が刻まれていますが、これを「格狭間〔こうざま〕」といいます。須弥壇にはよく用いられる文様です。この形により建築物のおおよその時代がわかるのです。天井は「四天柱」の中だけ「格〔ごう〕天井」(格子を組んだ天井)になっています。そのほかの天井は、板を張らないので、屋根裏の材(垂木〔たるき〕など)がそのままみえます。


このようなつくりは古い形式です。如来が祀られているうしろの板壁を「来迎壁〔らいごうへき〕」といいます。人が亡くなると、阿弥陀如来が観音や勢至などの菩薩を従えてお迎えにくることを「来迎」といいます。この板壁はその来迎の様子が現れる壁という意味をもっているのです。ふつうはこの板壁には「極楽浄土」などの絵が描かれますが、この薬師堂の「来迎壁」は後におぎなわれたもので、現在は板張りのままです。もとは極楽浄土の絵などが描かれていたのかもしれません。


〈附木造神将立像〉

薬師堂には、本尊の薬師如来のほかに、一体の神将像が附〔つけたり〕として国の重要文化財に指定されています。この神将像は、薬師如来を信仰する人々を守る「十二神将」の一体と考えられますが、その印〔しるし〕である頭上の支獣(干支〔えと〕をあらわす獣〔けもの〕)を欠いているため尊名ははっきりしません。像高は68.2cmです。像のつくり方は檜材を用いた寄木造で、頭と体を真ん中の線で二材を矧寄〔はぎよ〕せる手法をとり、像の体内をくりぬいています。


現状は別につくった両腕、左の沓先〔くつさき〕は失われています。表面は部分的に漆地がみられますが、素地(生地)といってもよいでしょう。髪の毛は焔髪〔えんばつ〕(燃えさかる焔のような髪)、目は瞋目〔しんもく〕(両眼を大きく見開きにらみつける目)で、顔は怒りの表情をあらわにし、甲〔よろい〕をつけた武将の姿をしています。全体の簡素なつくりは古様に通じるものがありますが、頭体部のバランスがくずれ、やや不的確な動きが示される表現は、南北朝時代も末頃の制作と考えられます。この大きさの神将像は本尊薬師如来とは大きさの点からつり合いませんので本来は薬師堂の付属の像ではなく、他堂から移された可能性が高いという説が有力です。