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木造金剛力士立像(中禅寺)

種別 :県宝 彫刻
指定日:平成13・3・29
所在地:西前山

解説

中禅寺の金剛力士像(阿形〔あぎょう〕・吽形〔うんぎょう〕)は、薬師堂(重文)の入口の、簡素な仁王門に安置されています。両像の像高は207.0cmで、金剛力士像としては小振りのほうであること、作風が穏やかで目立たないこと、厚手の彩色がはげ落ち表面がみにくくなっていることなどから見過ごされがちです。しかしこの二像は、平安時代末にまでさかのぼる、信州ではいちばん古い金剛力士像なのです。


最初に両像のつくり方にふれてみますと、本像は主として桂材を用い、部分的に檜材を使用した寄木造〔よせぎづくり〕(用材を組み合わせてつくること)です。その構造については、表面が布張りで、後におぎなわれた彩色が厚手であるためくわしく調査することが困難です。したがって部分的にわかることから推測してみますと、阿形〔あぎょう〕は、頭と体の部分は、正中矧〔しょうなかは〕ぎ(鼻筋を通る線で左右二材を矧〔は〕ぎ合わせる方法)という手法で、左右の体側にマチ材をはさみ四材を組み合わせています。脚部や腕部もいくつかの用材を組み合わせていますが、右足の膝から足〔あし〕ほぞ(像を台座に立てるほぞ)までは檜材を使っています。


また頭と体の内部をくり抜き、目は彫眼(刻み出した目)としています。右腕に巻きつく天衣も腕木から刻み出しています。頭頂の単髻〔たんけい〕(一束に結った髪)及び左右の足先は別材を矧〔は〕ぎつけています。吽形〔うんぎょう〕も寄木の手法は阿形とほぼ同じで、用材は主として桂材を用い、右手の全部、左手の臂〔ひじ〕先、左足の膝下から足ほぞまでは檜材を使用しています。また両像ともに布張りで、サビ漆(木肌を整える下地の漆)で地固めし、白土を下地として彩色がほどこされていますが、これは後におぎなわれたもので剥落〔はくらく〕が進んでいます。


なお阿形の持つ金剛杵〔こんごうしょ〕(密教法具のひとつ、独鈷杵〔とっこしょ〕ともいう)、両像の天衣〔てんね〕の遊離部(体から離れている部分)、背面の裳裾の垂下部、腕輪、足首につける飾りの輪、方座(台座)なども後におぎなわれたものです。


つぎに両像の姿態についてふれてみますと、阿形の姿は、頭頂は単髻で、その元を紐で結んでいます。顔は両眼を大きく見開いて開口し、斜め右をにらむ忿怒相〔ふんぬそう〕(怒りをあらわした表情)ですが、その怒りはおさえられています。上半身は裸形で、腰下は折り返しの裳(裙ともいう、袴のような着衣)で、太い縄目状の腰帯を巻きつけています。天衣は右腕に巻きつき、頭上で大きく向きを変え、左脇腹を通り垂下させています。左手は臂を曲げ、振り上げて金剛杵をにぎり、右腕は斜め下に伸ばし、五指を開いて手の平を下側へ向けています。そして腰を左にひねり左足に重心をおき、右足を開いて方座(長方形に刻んだ厚板の台座)に立っています。


吽形も頭頂は単髻で、紐で元を結っています。顔は目を大きく見開き、口をへの字に結んだ忿怒相で、左方をにらんでいます。しかし阿形と同様に怒りはおさえられた比較的穏やかな顔つきです。上半身は裸形で、腰下は折り返しの裳で、太い縄目状の腰帯を巻きつけています。天衣は右方前面を通って頭上で大きく向きを変え、左腕に巻きつき垂下させています。左腕は斜め下方に伸ばし、五指を開いて手の平を下側へ向け、右腕は臂〔ひじ〕を後方に張って曲げ、五指を開いて手の平を前方に向けています。そして腰を右にひねり、右足に重心をおき、左足.を開いて方座に立っています。


つぎにこの二像の造像様式の特徴についてふれてみますと、阿形、吽形ともに小振りではありますが、頭体部の調和がよく全体の体勢に破綻〔はたん〕がみられません。両眼を見開いた怒りの表情は誇張が抑えられています。このような特色をもつ本像の造像様式で、待に注目される第一は、腰にあらわされた太い縄状の腰帯です。これは平安時代の金剛力士の諸例に共通する特徴です。東大寺の南大門の金剛力士像に代表される鎌倉時代の金剛力士像は、腰帯を裳の折り返しの下に収めて隠しています。


したがって腰に太い縄状の帯を外にあらわす中禅寺の金剛力士像は、平安時代の造像様式を示していることになるのです。第二は、阿形にみられる姿態ですが、左腕は臂を曲げ振り上げて金剛杵をにぎり、右腕は斜め下に伸ばし、五指を開いて下側へ向け、腰を横に引き、からだを「く」の字に構える体勢です。第三は、吽形にみられる姿態ですが、腕を曲げ、また臂を張って五指を開いて構える体勢です。この第二、第三も平安時代の作例の中にみられる特徴です。


したがってこれらの特徴から、中禅寺の金剛力士像の制作年代は、平安時代にまでさかのぼるものと推定されるわけです。しかもそれを裏づける背景として、本寺をふくむ塩田庄が、平安時代末期に最勝光院領として中央とのつながりをもっていたことを考えないわけにはいきません。


最勝光院が建立されたのは、承安三年(1173)ですから、この時期を中心として、この金剛力士像が造立されたとみてもおかしくはないのです。また薬師堂の本尊である薬師如来像の造立年代と、この金剛力士像の造立年代がほぼ同じ時代とみられる点からも、中禅寺が最勝光院領時代に、都のすぐれた仏教文化を取り入れ、伽藍を整えたことが想像されます。