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銅造阿弥陀如来及び両脇侍立像(願行寺)

種別 :県宝 彫刻
指定日:平成29・3・16
所在地:中央

解説

願行寺〔がんぎょうじ〕の銅造阿弥陀三尊は、いわゆる善光寺式と呼ばれる三尊像です。長野市の定額山〔じょうがくざん〕善光寺に祀〔まつ〕られている主尊の善光寺三尊が、いちばんのもとになっているわけですが、この様式にはつぎのような約束があります。


1 三尊は立像である。
2 ひとつの光背の中に三尊が祀られている。
3 三尊はつぎのような印相を結んでいる。
・主尊は中央に位置し左手は刀印〔とういん〕(第二・三指を伸ばし、他の指は捻〔ねん〕じる)右手は施無畏印〔せむいいん〕(五指を軽く伸ばし、手の平を正面に向ける)を結ぶ。
・脇侍〔きょうじ〕は両側に位置し梵篋印〔ぼんきょういん〕(手の平を上下に合わせる)を結ぶ。
4 脇侍(観音、勢至)は、頭部に宝冠(通形は六面宝冠)を戴く。


現在、本寺に祀られている銅造の阿弥陀三尊像は、光背、台座及び厨子〔ずし〕が新しくおぎなわれていますが、善光寺の三尊像と同じ様式につくられています。


鋳造方法は三尊とも共通し、合わせ型を用いて一度で鋳造しています。ただし如来の両手先などの細部は、別に鋳造して接合する鋳掛〔いか〕け(合金をとかして金属を接合すること)がおこなわれています。また中型を支えた鉄芯や笄〔こうがい〕(型持ちのこと)の痕跡などが確認されます。なお観音菩薩の足〔あし〕ほぞの一部に、湯(溶かした銅)がまわっていない箇所が見受けられますが、全体的に均一に薄く仕上げられ鋳上がりは良好といえましょう。像高は、阿弥陀如来47.4cm、観音菩薩32.8cm、勢至菩薩32.3cmです。


三尊のそれぞれの特徴をみますと、阿弥陀如来の姿は、頭部に刻まれた螺髪〔らほつ〕(粒状の髪の毛)は大粒で整っています。頭部の二重に重ねたような頭の上部を肉髻〔にっけい〕、下部を地髪〔じはつ〕といいますが、肉髻は低く、地髪の鉢は大きく張っています。そして髪際〔はっさい〕(額〔ひたい〕の髪の生え際)の中央部が、波状に下に大きくうねっています。これは鎌倉時代の後期の遺例にしばしばみられる特徴です。顔は白毫相〔びゃくごうそう〕(眉間〔みけん〕に玉をはめこんだ顔)ですが、白毫は失われています。白毫とは、仏の眉間にある旋毛〔せんもう〕(渦をまいている毛)のかたまりをいいますが、通例では水晶などの玉をはめ込んでいます。


また顔立ちはたいへん整った端正な表情を示しています。しかし弧を描く眉の隆起が低く、切れ長の目は浅い刻みで、顔全体はやや平板な感じです。両脇侍(如来にしたがう観音・勢至菩薩のこと)も同様の顔立ちです。頸部は三道(頸部に刻まれた三本の筋目)を刻み、着衣は通肩〔つうけん〕(両肩に懸かる普通の着方)の法衣(衲衣ともいう)、裳〔も〕(裙〔くん〕ともいう、袴のような着衣)を着け、左手は垂下させて刀印、右手は臂を曲げ胸前で施無畏印〔せむいいん〕の善光寺式の印相を結び、台座(後補)に立つています。全体にがっしりとした小太り気味のからだつきです。両脇侍もやはり同じように小太りです。現状、阿弥陀如来の背面、右袖、裳裾などに火中の痕跡、同様に脇侍像にもその痕跡があります。また三尊像ともに鍍金(金メッキ)は確認されず一部に黒漆が塗られています。剥落〔はくらく〕してしまったのでしょう。


観音、勢至菩薩の姿態は、頭部に宝冠を戴きますが、通形の六面宝冠(周囲が六角形になっている冠)ではなく、冠の上端の角を切り開く四面宝冠で、正面2カ所と両側面に猪目形の文様が刻まれています。天冠台は紐二条(二本の紐状のこと)で、正面と両側面に花形の飾りを刻んでいます。地髪はていねいな毛筋彫り(髪の毛を筋目であらわすこと)で、耳上を髪の毛一束が巻いています。両耳上には、飾りをつけたと思われる小孔があけられています。また両像とも白毫相ですが、観音菩薩の白毫は失われています。頸部の三道は勢至菩薩にしか刻まれていません。


さらに両像とも梵篋印〔ぼんきょういん〕を結んでいますが、観音菩薩は左手を上に、勢至菩薩は右手を上にしています。場合によっては、合わせ型ひとつで両像を鋳造することがあり、観音、勢至の両脇侍が同じ印相をしているのを見受けます。本像のように掌手の上下が異なっている場合は、二像の鋳型が異なっていることを意味し、明らかに観音、勢至の両脇侍を意識しての鋳造と考えられます。


既述しましたように、髪際〔はっさい〕の様子、顔のつくりとその表情、多少小太り気昧のからだつきなど、三尊に共通した特徴がみられますので、当初から三尊一具で鋳造されたことはまちがいありません。制作年代は、鋳造の技術、三尊の造像様式などから鎌倉時代後期にさかのぼるものと思われます。特に信州は善光寺の膝元でいながら、善光寺式阿弥陀三尊の遺例が少なく、しかも鎌倉時代にさかのぼる三尊像はわずかしか伝存していません。このことからも本寺の善光寺式阿弥陀三尊は、信州においては貴重な遺例といえましょう。


なお願行寺の寺伝によると、天正十四年(1586)真田昌幸が海野郷(現東部町)から、上田城下町厩裏〔うまやうら〕の地に移築しました。その後元和七年(1621)二代目上田城主真田信之によって海野町の東方(横町)に再建されました。真田氏の移封後は松平氏の菩提寺になっているなど、その繁栄は歴史に記されていますが、この阿弥陀三尊の由来は不詳です。