安楽寺の「伝芳堂」(開山堂ともいう)に祀られる二人の僧侶の頂相は、向って右側が開山の安楽寺第一世樵谷惟僊像で、左側が第二世拗牛〔ようぎゅう〕恵仁像です。
恵仁の経歴はまったく不詳で、惟僊が中国から帰朝する際に同道し、日本に帰化した中国僧で、本寺の第二世になったと伝えられるのみです。
像内の背面に、惟僊像と同じように、「八句陀羅尼」と嘉暦四年(1329)九月十二日の造立銘が墨書されています。作者の名前は記されていませんが、惟僊の像とは、材質、独特の寄木造の方法、その仕上げにいたるまで共通していますので、惟僊像と同じく、大工〔だいこう〕兵部の手になるものとみてまちがいないでしょう。頂相〔ちんぞう〕は等身大で、惟僊像とほぼ同じ大きさにつくられています。像高は75.1cmです。
恵仁像は払子〔ほっす〕を持ち、右手で柄〔え〕をにぎり、左手を仰掌(手の平を上に向けること)して房をつかむほかは、まったく惟僊像と同じ姿に刻まれています。痩身〔やせみ〕、面長〔おもなが〕で、顎〔あご〕をつき出すように正面を凝視する姿は的確に表現されています。また目のくぼみや、下まぶたのたるみ、頬〔ほう〕の深い皺〔しわ〕など、老齢を示す顔の表情は生き生きとしています。
また背筋を伸ばしたやや反〔そ〕り気味の姿勢は、あたかも作者を前にして刻まれた、恵仁の生前の姿を写した寿像(その人の生前につくられる像のこと)とさえ思える出来ばえです。惟僊像は像背の墨書銘から、没後の遺像であることはまちがいないわけですが、おそらく七回忌あたりに、法嗣である恵仁を中心とする門弟たちによって造立されたものと推定されます。
そしてその際に、恵仁は安楽寺の第二世として、自分の像も刻ませた可能性は高いように思われます。しかも惟僊像、恵仁像の像背に記された同筆の墨書銘は、恵仁の筆になるものかと思われます。もし恵仁像が寿像でないとすれば、没後まもない遺像とみられます。いずれにしても恵仁像は、寿像とみてもおかしくない出来ばえです。
なお、銘記に記された嘉暦四年は、八月二十八日に改元され元徳元年となりますが、あえて旧年号を使用したのは、師である惟僊の頂相に合わせる意図があったものと推察されます。あるいは半月余りでは改元の情報が伝わらなかったからなのかもしれません。
像内背面に記されている墨書銘はつぎのとおりです。(昭和九年修理時に写しとった籠文字による「信濃史科』参照)
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