茎〔なかご〕(刀身の柄〔つか〕に入った部分)の銘に「源清麿 嘉永二年八月日」と刻まれていますが、「中条清麿」(清麿が打った幕臣中条安之助の愛刀)と世に称せられた名品と同じ年に打った傑作です。豪快な中条清麿の刀に対し、やや細身でやさしい姿ですが、絶頂期の清麿にふさわしい出色〔しゅつしょく〕の仕上がりです。清麿は生涯の中で、弘化二年頃から嘉永三年ころにかけ、もっとも傑出した刀を打っています。この嘉永二年銘の刀の特徴をあげてみますとつぎの通りです。
・長さ 70.2cm 反り 1.9cm
・形状 鎬〔しのぎ〕造り、庵棟〔いおりむね〕、身幅広く元先幅差〔もとさきはばさ〕ほとんどなし。
・地肌〔じはだ〕 板目流れ、やや肌立つ、地沸〔じにえ〕厚くつき飛焼あり、物打辺荒沸〔あらにえ〕散る。
・刃文〔はもん〕 腰の開いた互の目乱れ、横手〔よこて〕下から物打〔ものう〕ちにかけ刃幅広まり二重刃状。
・帽子〔ぼうし〕 乱れ込み、先尖〔とが〕り、激しく掃掛〔はきか〕け、やや深めに返る。
・茎〔なかご〕 生〔う〕ぶ、筋違鑢〔すじちがいやすり〕、目釘孔〔めくぎあな〕一つ、栗尻〔くりじり〕。
清麿は、文化十年(1813)、現在の東部町大字滋野字赤岩の名主山浦昌友の二男として生まれました。名は昇といいますが、刀剣の銘には、山浦環〔たまき〕正行、源正行、源清麿などと刻んでいます。兄の真雄が二十六歳のとき鍛刀修行〔たんとうしゅぎょう〕に入るに及び、その誘いに応じ作刀の道に入りました。清麿が十七歳のときです。天保三年(1832)松代におもむき、本格的な作刀の修行に入りました。そして天保六年(1835)、二十三歳のころ江戸に出た清麿は、幕府講武所頭取窪田清音に作刀の技量を認められ、その庇護〔ひご〕のもとに鍛刀場を開き、江戸において作刀に専念することになりました。
清音は、清麿の作刀の修行を支えようと「武器講」と称する講を立てました。清麿は一口三両(当時は一口十五両が相場でした)という廉価〔れんか〕で、百口の刀を打つことになりました。あまりの廉価さと、あいまいな刀を許さない清麿の高潔な精神は、結局財政的に破たんし、ついに制作費を使い果たし、目的を達しないまま江戸を去らなければならない破目におちいってしまいました。
江戸を逃れた清麿の行きついた先は長州の萩でした。萩における滞在は、天保十二年(1841)から足かけ三年間のようですが、このわずかの期間に、清麿は精力的に刀を打ったことが、今日萩に遺〔のこ〕されている多くの名刀からうかがい知ることができます。
天保十四年(1843)の秋、萩を去った清麿は九年ぶりに郷里へ帰りました。そしてなつかしい父や兄と再会を果たしますが、わずかの滞在でした。弘化二年(1845)、剣士を目指す、兄の真雄の一子・勇(後の刀工兼虎、清麿の弟子)をともない、ふたたび江戸へ出ました。そして清音に武器講の不始末を詫び、四谷伊賀町に居をかまえ、作刀に専念することになりました。
清麿の打った刀が、世の名声を博すようになるのは、これ以後のことです。また清麿と改名したのもこのときです。この四谷伊賀町で打った刀は、当時大勢の愛剣家たちに「四谷正宗〔よつやまさむね〕」とさえ称されるようになりました。そして改名した記念すべき第一作を恩人の清音に献呈しています。刀の銘を「為窪田清音君 山浦環源清麿 弘化丙午年八月日」としました。長さ80.3cmのみごとな大太刀で、現在県宝及び国の重要美術品に指定されています。
これ以後、清麿は弘化から嘉永年間にかけ、つぎつぎに名刀を世に出しています。現在県宝・重要美術品に指定されている七口の刀は、この頃の作に集中しています。ちなみに兄の真雄は四口、真雄の一子兼虎は二口が県宝に指定されています。
清麿が作刀の道に足を踏み入れるようになった動機は、兄の真雄とまったく同じです。兄弟のふたりは剣士を目指し、その修行に励んでいましたが、当時の刀剣が華美に流され実戦に役立たないことを憂い、「日本刀の本質は、真剣をもって戦う場に備えることにある」との結論から、ついに自ら作刀の道を選ぶことになったのです。しかもこの兄弟は、まったく異なった作刀の道を歩みます。
兄の真雄は、小諸藩、上田藩、松代藩に招かれ、藩お抱えの刀工として、安定した条件の中で作刀に励むのですが、弟の清麿は、自分の作刀が他から束縛されることをもっとも嫌いました。生活のすべてが保証されない独立独歩の世界です。清麿は終生ひとり孤独〔こどく〕な道を歩んだ刀工といってよいでしょう。これはふたりの個性の違いからくるものでしょうが、兄弟はいつも互いに支え合い、それぞれが選んだ道をまっしぐらに歩みました。刀工山浦兄弟は、幕末の信州が生んだ日本に誇れる名工といってよいでしょう。
その清麿の生涯に終止符を打つときが突然にやってきました。嘉永七年(1854)十一月十四日、清麿は自ら命を絶ってしまったのです。四十二歳の若さです。自刃〔じじん〕の理由はさまざまに想像されるでしょうが、幕末の騒然とした世情の中で、酒豪であった清麿は、酒によりしだいに体がむしばまれ、ついに手足の自由がきかなくなり、刀を打つことができなくなってしまいました。その絶望感が自刃へと追い込んだようにも思われます。純情派であった清麿の最後はあまりにも悲劇的です。しかし数多くの名刀を世に出した清麿の業績は、日本の刀剣史の中に燦然〔さんぜん〕と輝いています。
「刀」源清麿作(郷土出版社刊『長野県美術全集』から)