茎〔なかご〕に刻まれた「弘化四年丁未春二月上完應同國上田藩河合直義君之需 信濃國小諸住山浦壽昌作之 八月日」の銘でわかるように、小諸藩の刀工山浦真雄が、 上田藩剣道指南河合五郎太夫直義の注文に応じてこの刀を打ちました。長くて豪壮な大太刀を一点の破たんもなく仕上げた腕はみごとなもので、真雄初期の代表作といわれています。
この太刀の特徴をあげてみますとつぎの通りです。
・長さ 97.5cm 反り2.0cm
・形状 鎬〔しのぎ〕造り、庵棟〔いおりむね〕、身幅が広く重厚、長大。
・地肌〔じはだ〕 板目流れ心、刃寄り柾〔まさ〕がかる。
・刃文〔はもん〕 互の目に沸〔にえ〕つき砂流しかかる。
・帽子〔ぼうし〕 乱れ込み反〔そ〕りが深い。
・茎〔なかご〕 生〔う〕ぶ、筋違鑢〔すじちがいやすり〕、目釘孔〔めくぎあな〕三つ、栗尻〔くりじり〕。
真雄は、文化元年(1804)、現在の小県都東部町大字滋野字赤岩の名主山浦昌友の長男として生まれ、二十六歳のとき上田藩の刀工河村壽隆の門を叩き鍛刀修行に入りました。弟の昇はこのとき十七歳でしたが、兄の誘いに応じ作刀の道に入りました。後の名工源清麿です。兄弟は互いに研究し合い作刀に励みましたが、その後、真雄は藩お抱えの刀工として、清麿はひとり立ちの刀工として、それぞれ異なった道を歩みました。その中で兄真雄の生涯の作品を見渡すとき、四期に分けてその特徴をみとることができます。
小諸藩時代で注目されるのはやはり大太刀です。腰に踏ん張りのある豪壮な仕上げで、作刀への強い意欲が感じられます。上田藩時代は脇指〔わきざし〕、短刀に傑作が多くみられます。身幅が広くがっしりとした作風です。松代藩時代は藩工として十五年という長い作刀の期間でした。ここでは薙刀〔なぎなた〕、長巻〔ながまき〕、太刀など長大なものを手がけています。藩の要望に答え、四方詰め、本三枚というようなむずかしい手法を 用い、真雄ならではの強靱〔きょうじん〕な美しい作風の刀を打っています。晩年は、平作りで細身の短刀を多く打っています。その作風からは、作刀に生涯をかけた晩年の穏やかな心境がうかがえます。
明治4年(1871)息子の刀工兼虎に家督をゆずり、自分の生涯を回想し『老いの寝ざめ』を執筆しました。そして明治7年(1874)郷里赤岩で病を得、その生涯を閉じました。享年七十一歳です。